フランスにいたよ(4)フィジャックにて

7月22日の夕方に、フィジャックに着きました。町の脇を川沿いに抜けて、少し行ったところを左に折れて、細い山道を登ったところにイエイエの家がありました。

上の写真は、道に面した方から撮影したもの、次の写真はこの建物の向こう側から撮ったもの、手前は広い庭になっています。

この位置から左の方と右の方を望んだ写真です。広ーい、の一言です。

家の中を案内してもらいました。介護をしてくれる一家が住み込めるように増築したけれど、現在は通いでお願いしているそうで、部屋数がたくさんあります。我々が使った寝室、アンティークなものがいろいろと飾られていました。

謎の紙束。これは何でしょう、あとで明らかになります。

孫たちが来るので、いろいろな遊具がそろっています。

サラダと各種サラミソーセージのアペタイザーとワインで夕食が始まります。ワインはロゼが最初に出て、後で赤でした。それとカモ肉のリエット。薄く切ったパンに塗っていただきます。ふつうは豚肉のリエットですが、フィジャックはフォアグラが特産なので、余ったカモ肉を使ってリエットを作るそうです。

テラスでゆっくりと食事を楽しみ、その後、眠りにつきました。

翌日(7月23日)は午前中にフィジャックの街へみんなでお買い物。午後に再び今度はかをりと二人でフィジャックの旧市街を散歩、ツーリストインフォで街の歩き方を教えてもらって、その地図にある番号通りに歩いてみました。翌々日(7月24日)の月曜日にはシャンポリオン博物館に行きました。これらをまとめて、フィジャック旧市街の散策について述べてみます。

フィジャックは中世の街並みがあちこちに残っている、とても興味ある小さな町です。下の2枚の写真はGoogleEarthからのものと、ツーリストインフォでもらった地図をスキャンしたものです。

セレ川の北に、三角おむすびのような形をしたフィジャックの旧市街があり、昔はぐるりを城壁で囲まれていたのでしょう、上端(北側)から左側を下に向かって「中世の城壁(Rampart medieval)とあり、一部が残っているようです。おむすびのほぼ中心に三角形の広場、シャンポリオン広場があり、その周りには茶色い瓦の古い建物が建ち並んでいます。

シャンポリオン広場から左へ少し行ったところにカルノー広場があります。カルノー広場の大部分は屋根で覆われていて、その下では市場が立ちます。23日には骨董屋さんの、というかガラクタ市場が立っていました。

街には大きな建物が2つあります。北東側にあるのがノートルダム・ド・ピュイ教会、川のそばにあるのがフィジャックで一番大きな建物であるサン=ソーヴル教会です。街はシャンポリオン広場あたりから上りになっているので、ノートルダム・ド・ピュイ教会は高台の上にある感じです。

今日の午前に駐車して、西側から旧市街に入る寸前に左を見ると斜面がありました。これが地図にあるジグザグのEscaliers du Calvaireでした。だいぶ上っていますよね。

さて、23日の午後の旧市街探検、出発点はツーリストインフォです(上の地図の①)。この建物も古いもので、13世紀に建てられた、かつての造幣局だとか。

地図の矢印と壁に貼ってあるキーマークを対応させながら、歩きます。途中目にした路地や建物など。

これでサン=ソーヴル教会に着きました。中をちらっと覗いて、先を急ぎましたが、柱頭彫刻や聖水盤置きの彫刻など見るべきものがあったようです。

教会の裏手を回って、古い建物を見ながら、キャナル通りからエミール・ゾラ通りを通って街の中心に向かいます。ますぐ向かわずに、南へぐるっと迂回してカルノー広場を通ってシャンポリオン広場に戻ってきました。途中で目にした建物、外観は古そうですが、人が住み、商売をしています。大切に守っているのですね。

シャンポリオン広場を横切らず、すぐの左折してエクリチュール広場に向かいます。ここにはロゼッタストーンの大きなレプリカがあります。

シャンポリオン博物館横の狭い路地を通って広場に戻り、緩い坂を北に向かって少し進みます。

少し行くと左手に市役所があり、中に入るとHeritage Centaerにこの町の歴史が展示されていました。でも説明がフランス語で全然わからず、通り抜けて裏庭に出ます。パピルスが植えられていました。

ふたたび細い路地を通って広場に戻り、広場を横切ってエミール・ゾラ通りを少し行き、Rue Delzhens(発音分からない)へ左折して入り、狭い登坂を北へ進みます。するとノートルダム・ド・ピュイ教会の下に出ます。高台にあるので、旧市街を見下ろすことができます。下の写真、太陽の位置の関係で東方向を見ています。街の中心はもっと右にあるのですが、、。

教会の中をちらっと覗いて、

少し急いで出発点まで戻りました。迎えの約束に時間が迫ってきたからです。その途中の写真です。

こうして2時間ほどの街歩きは終わりました。家に戻ってオークの木の下でしばし休みました。どう歩いたのかを復習しながら。

昨日の街歩きでは時間の関係でスキップした、シャンポリオン博物館を訪ねました。

事前に本を読んで予習をして期待していったのですが、、、期待外れでした。説明は全部フランス語、英語のオーディオガイド(英語)を借りましたが、これもエジプト学についての説明が多く、シャンポリオンについての説明はあまりありませんでした。博物館は4階建てなのですが、1階がシャンポリオン関係の展示とエジプト学の展示、シャンポリオンの人となりなどの説明はほとんどありませんでした。2階から上は文字の歴史のような展示、ハムラビ法典のレプリカとか、漢字の歴史とか。なるほど、この博物館の正式名称が、Musee Champollion – Les Ecritures du Mondeであるように、シャンポリオン博物館というよりは、世界の文字の博物館というほうが正しいようです。


ただ、最上階のテラスからシャンポリオン広場を見下ろす景色はとてもよかったです。向かいの建物の上部もよく見えましたし。

フィジャック旧市街については、これで終わりです。ちなみにフィジャックについては、このサイトが写真満載で充実しています。

この間にももちろん、緑陰でリラックス、孫たちとの交流、さらにおいしい食事などがありましたが、ほぼ省略。主なものを載せておきます。

ガレージから復元した手回オルガン(ストリートオルガン)を出してきて演奏会です。車付きのかなり立派なものです。最初の方に出てきた紙束は、これの楽譜だったんです。一定のスピードで回す必要があるので、かなり疲れますが、ちょっと乗ってる感じですね。

最後の夕食はシャンパンで始まりました。

7月25日の朝、フィジャックを後にしました。

娘夫婦は途中で友達と会うために別行動なので、我々は帰路はどこにも泊まらず、ラクトディ―に戻りました。5日間だったけれど、長くと感じる旅行でした。


フランスにいたよ(3)

「フランスにいるよ」の続きを書こうと思っているうちに、8月11日に帰国してしまいました。それで、過去形にして続きを書こうと思います。相変わらずの遅筆堂ですね。

ラクトディ―で3日過ごした後、7月21日の朝、ラクトディ―を出発して、フィジャック(Figeac)へ向かいました。車2台で9人の旅です。大人だけなら8時間半の行程を一気に行くこともできるのですが、3歳と1歳の幼児がいるので、無理をせずに途中のモンモリヨン(Montmorillon)で一泊する行程を計画しました(もちろん計画したのは小生ではありませんが)。

フィジャックは方角的にはボルドーから東へ250kmほど行った高地にある街です。日本人にはなじみのない街の名前ですが、シャンポリオンが生まれた町です。シャンポリオン、そう、あのロゼッタストーンのヒエログリフを解読した人物です。街にはシャンポリオンの生家を改造した博物館があります。

どうしてフィジャックへ? それはPhilippeのお母さん(イエイエと呼んでいました)が一人で住んでいるからです。Philippeの両親も以前はコッセルに住んでいましたが、引退後にフィジャックの町からちょっと離れた丘の上にある農家を買って、住めるように改築してきたそうです。また、敷地が広大で、これも買い広げていったそうです。お父さんはすでに亡くなっていて、イエイエは90歳、普段は身の回りの世話をする人が訪ねていますが、Philippeの兄弟6人が、ご機嫌伺いとホリデーを兼ねて順番に訪ねているようです。

こうしてみると、退職後に田舎へ住み替える割合がかなり高いようです。聞くところでは、そうした場合の相続税はかなり軽減されるとか。日本の場合はリハウスが、まだまだうまくいっていないようですね。

途中のサービスエリアで休憩、トイレタイムとお昼です。簡単なサンドイッチを食べ、少し外の空気を吸います。サービスエリアといっても日本とは違って、食堂や売店が並んでいるわけではありません。駐車スペースとトイレがあるだけで、あとは自然の中にテーブルとイスが並んでいます。

英気を養って、モンモリオンに向かいます。道の両側には、小麦、トウモロコシ、ヒマワリの畑が広がっています。そうそう、風力発電の風車が並んでいるのをずいぶん見ました。

ちょっと脱線。ラクトディ―でもモンモリオンでも、交差点はラウンドアバウトになっています。ラウンドアバウトの通り方ですが、環状内の車が優先されます。フランスは右側通行ですから、環状内を左側から車が進行してきた場合は、進入する車は一時停止し、左からの車がない場合そのまま入ります。
上の写真では片側二車線になっていますが、小さなものでは一車線です。この方式だと交通信号がなくて済み、信号のある交差点で左右の車の進行がないのに赤信号で停まって待つ、という必要がなくなります。交通信号がないので、電力の節約にもなるのではないでしょうか。ところで、日本の場合、交通信号の電気代はだれが負担しているのでしょう、気になりました(写真はHatenaKeywordのラウンドアバウトより)。ちなみに日本でも2013年6月に道路交通法が改正され、ラウンドアバウトが環状交差点として位置づけられました。ただし見通しが良いこと、中心のロータリーを設置できる余裕があることなど、日本での普及はなかなか難しそうです。

閑話休題。モンモリオンの宿泊場所に到着しました。町からは2kmほど離れた、川のそばの昔はビール工場だった跡地にある、おそらく工場のオーナーの家が改装されてBed & Breakfastのしゃれたホテルになっています。その名も、Chambres d’hôtes La Brasserieです。玄関のドアを開けて中へ入ると、フロアーがタイルのモザイクになっています、おしゃれ。部屋数は全部で4つしかありません。
ドアの内側は朝食を食べるスペースになっています。しゃれた階段を上った2階に宿泊する部屋があります。
早速、部屋でインターネットにつながるかチェックしている人がいます。ネット依存で嫌ですねー。

荷物を解いて、車で街のレストランへ。Office de tourisme近くの駐車場に車を止めて、ヴュー・ボン通りをたどってPont de Monmorillonでガルトンプ川を渡ります。この橋の楕円形の橋脚部に張り出した凹みには、タイプライターや紙の裁断機のようなものが置かれていました。

道なりに少し進んだ後、川の方へ引き返して川に沿ったレストランに入りました。総勢9名を、川側に大きく窓が開いた席に案内してくれました。窓からの景色です。

この景色、食事の後には沈む夕日で教会の尖塔だけが赤く染まっていて、とてもきれいでした。

ぼんやり食事を待っていると、「疲れちゃったの?」とはるかがマノとご機嫌伺い。

前菜、メイン、デザートとたっぷり食べて、ワインも飲んで、おなか一杯になりました。

腹ごなしに食後の散歩。先ほどの道を坂を上がって坂上にある教会Eglise Notre-Dameへ。

道端の案内板に、紙や本のサイズのことが書いてありました。橋の上の展示物といい、この町は印刷とか本に関係があるのでしょうか。調べたけれどわかりませんでした。散歩のあとホテルに戻り、ぐっすりお休みなさいとなりました。

翌日早く起きて付近を散歩。ビール工場の廃墟に、脇を流れる川の水力を利用して何かを持ち上げる(?)ような設備がありました。

昨日は車で通りすぎたホテルへの入口行ってみました。この道の奥にホテルがあるとは思えませんねー。入り口は昔のビール工場の門でしょうか。進入禁止となっています。

パンと紅茶のコンチネンタルブレックファースト。パンはおいしかった。

前庭にテラスがあって、テーブルにタイかビルマの仏塔が置いてあります。ちょっと東洋趣味のあるオーナーなのでしょうか。朝食のヨーグルトを食べています。

朝食が終わり、再びフィジャック目指して南へ走ります。途中でのお昼の休みをはさみ、夕方早くにフィジャックのイエイエのうちに着きました。

長くなったので、ここから先は次の回に書くことにします。


フランスにいるよ(2)

前回の「今、フランスにいます」では、最後のところで疲れてベッドに潜り込んでしまって、肝心の「どうしているの?」には答えていませんね。

答えは、Philippe & Brigitte夫妻の結婚40周年のパーティーに招かれたからでした。このパーティーには当然、娘夫婦が2人の子供を連れてアメリカから参加するので、ファミリーリユニオンにもなります。それで事前にSkypeで十分に打ち合わせて、同じ日にフランスに到着し、同じ日にフランスを離れることにしたのです。

Philippe & Brigitte夫妻は、ここへ本格的に引っ越してくる前は、Courseulles-sur-Mer(地図にはクルル・シュル・メールと表記されていますが、コッセルと言い慣わしているので、以降はそれに従います)に住んでいたのですが、2年前にお二人が退職したのを機に、それまではサマーハウスにしていた家を増築・改装して、本格的に引っ越してきたのです。コッセルは、D-dayの上陸作戦が行われたノルマンディーのオマハ海岸の少し東側の海岸にある小さな町です。次の写真はそのサマーハウスのBefore(2010年撮影)とAfter(今回撮影)です。
左側の1階部分に手前に伸びるように居間を広くとり、その右側の台所部分は新しい厨房器具を入れて一新、居間と台所部分から庇を伸ばしてテラスにしてあります。また、2階部分にも手を入れています。我々は2階の一番左の部屋を借り受けました。

Afterの写真の手前には、以前にはなかった菜園の一部が写っています。ここにはトマト(黒い枠の温室の中)やカボチャなどの野菜やいちごが栽培されていて、隣との境に沿ってリンゴや桃などの果樹を植えられています。
Philipeは毎朝、水やりなどの管理を必ずしていました。

で翌日からは「酒とバラの日々」じゃないけれど、昼食は比較的にしっかりと取るディナー、サラダなどのアペタイザーとフランスパンあるいはクロワッサン(これがどちらもおいしい!!)、もちろんワインあるいはシードルが出ます。そしてメインの肉か魚料理、最後は果物などで締めます。

夕食は少し軽めですが同じようなコースでワインが出て、最後は必ずチーズで締めます。チーズも一種類ではなく何種類もあります。不思議なことに夕食の後はコーヒーあるいは紅茶は出ないことが多いのです。朝は比較的軽くパンと紅茶です。
この日はアペタイザーにテナガエビがどっさり出ました。
チーズは好きなだけ取って回します。

食事の合間に、港にある魚屋さん、近くの産直の有機野菜の販売店あるいはカルフールへ食料の買い出し等。考えると一日の大半を食べることとその準備に費やしている感じです。

カルフールは、日本にあるスーパーと同じです。ただブルターニュ地方の特産品であるビスケットが売られていました。

7月20日に、海岸近くの広場で小さな盆踊り(?)のようなものがありました。輪になって踊るのです、ただし手をつないで。
最後の写真の女性が着用しているのは、この地方の民族衣装。高い帽子(コアフの一種)が特徴です。この地方の道路標識には、フランス語とブルトン語で地名が書かれています。ともかくブルターニュ地方は、フランスの他の地方とは異なるようです。