生い立ちの記14 新宿高校時代(中)

一年生の6月で日記に書きこみが無くなっているので、生い立ちの記(12)は、そこで終わらせました。日記の次の書き込みは、年が明けた1961年1月6日でした。この間、映画は相変わらず観ていたようです。たとえば、「あじさいの歌」「5つの銅貨」「渚にて」「次郎物語」「太陽がいっぱい」「激しい季節」「秋日和」など。

館山寮での臨海教室
日記にはどういうわけか記述がないのですが、、新宿高校の大きな行事として、新入生が必ず行う夏の臨海教室というのがありました。房総半島の館山市香(こうやつ)にある館山寮で3泊4日の日程で行うものです。全員参加なので、いくつかの班に分けて、7月から8月にかけて順番に行っていました。

上の2枚は、2021年現在の寮付近の写真をGoogleMapより切り出し、ネームを貼ったものです。下の拡大写真にあるように、2019年に千葉県を襲った令和元年房総半島台風(台風15号)の強風により、右側に延びていた男子棟の赤いトタンの屋根は吹き飛ばされる甚大な被害を受けました。上の写真は、男子棟が撤去された後のものです。現在、再建中で、2021年6月に竣工予定だそうです。
もちろん1960年に行ったときには、こんな赤い屋根の建物ではありませんでした。なんだか古めかしい横長の建物があるばかりで、みんなで「馬小屋だ」と言っていました。でも、植え込み(防風林)の向こう側はすぐに館山湾の海辺で、臨海学級には相応しい立地でした。

記憶が正しければ、男子生徒は六尺の赤い長褌を締めるように言われ、赤い布を買ったと思います。なぜ赤い六尺褌かというと、サメに襲われたとき、これをほどいて足首につけて泳ぐとサメよりも大きくなり襲われない、万一襲われてもサメは後ろの方から喰いつくので時間が稼げるということでした。館山湾にサメが出ることなんてないでしょうにね。もう一つの利点、溺れたときに船の上から背中側の後ミツと縦ミツを掴まえて引き上げやすいとも聞かされたような。六尺褌の締め方、一方の端を左肩にかけ、前を包んで後ろに回し、という手順を教わった気がします。
そう思って卒業アルバムを見たら、遠泳から上がってくるときのみんなの格好は、ふつうの海水パンツ姿でした。もしかしたら中学校の時の記憶違いかも。生い立ちの記(8)の中学校2回目の臨海学校の「罰当たり」と書いた写真をよく見ると、赤ふんをしているように見える写真がありますので。

最終日には、沖ノ島往復の遠泳がありました。中学校の時に経験しているので、大丈夫、無事に完泳しました。臨海教室の写真は見つかりませんでしたが、卒業アルバムの中にありました。真ん中で顔の上半分だけ見えているのが筆者ですね。

1961年
さて、再開された1月6日の日記の内容は、「昨日、第2回のクラス会があった」という書き出しです。その後は、あまりにも個人的な気恥ずかしいことなので省略します。少し飛んで、1月13日(金)には、「今週は映画よく観た。月曜日には『アラモ』、火曜日には『ジャイアンツ』、木曜日には『トロイのヘレン』『クレオパトラ』(エリザベス・テーラーのではなく、リンダ・クリスタル主演のもの)。まだ予定もある。」とあります。「休み時間ごとに、映画の話をしている」ともあります。新宿には映画館がたくさんあり、「てっぺん座」と言って伊勢丹の道を挟んだ南側に、少し古い洋画の上映館があり、よく行きました。新宿日活名画座というのが正式名称で、細い回った階段をテクテク上って行くのです。

アラモ」はよく覚えています。新宿ミラノ座でトッドAO方式70ミリの大きなスクリーンで観ました。ずっと東急文化会館の「渋谷パンテオン」で観たと思っていましたが、パンフレットが出てきて思い違いだと分かりました。上映時間3時間20分の長い映画でしたが、楽しめました。主題歌の「The green leaves of summer」が耳に残るメロディーでした。

家に残っていたミラノ座で買ったパンフレットと当時のポスターを比べたら、面白いことが見つかりました。両者で左右が逆転しているのです。

パンフレットの表紙
ポスター

パンフレットの左側に描かれたトラビス大佐の下にいる人物の銃の構えは正しいけれど、ポスターの方はおかしいです、右利きだと仮定してですが。デイビー・クロケットの火の付いた棒の構えも変ですし。ポスターは裏焼きで製作されてしまったようです。

日記には、その後に、「僕の好きだった伊女優Sylvia Lopezがなくなったのを知ったのは昨日だった(正しくは伊ではなく仏女優です)。彼女の作品は『ヘラクレスの逆襲』だけだが、ショックだ。『エロデ大王』と未公開の『私と踊らない?』を見なきゃ。さようなら、Sylvia Lopez ほんとうに、、、悲しい気がします。」と書かれていました。すでに書きましたが、Sylvia Lopezは「私と踊らない」の撮影中に亡くなっていて、別の女優で取り直されているので、彼女は出演していません。追悼のために、もう一度Sylvia Lopezの写真を掲げます。

この日から4月20日まで空白です。その理由が次ように書かれていました。
「1月からの空白期間にも色々なことがあった。おばばが死んだんだ。その時、日記帳を開こうとしたが、そうしなかった。あの印象が強烈だったためだ。書く事が残酷なように思ったからだ。」

筆者は「おばあちゃん子」で、可愛がられて育ちました。祖母寿々は、大きな陶器製の火鉢の向こうに座って、いつも煙草の「光」をくゆらせていました。小さいころ頼まれて、煙草を買いに行ったこともありました。子宮筋腫の手術で,筋腫を摘出した後、理由はわかりませんがちゃんと縫合をしなかったためか(だと記憶している)、お腹にかなり大きな瘤がありました。
祖母は、女手一つで一人娘を育てあげ、どのような伝手だったのか全く知りませんが、その娘に入夫婚姻を実現して森谷家を存続させ、と或る意味で絶対者だったようです。母は高等女学校の後、もう少し勉強がしたかったようですが(後で聞いた話では)認められず(多分)、お茶やお花を習う、いわゆる花嫁修業をして育てられました。そんな祖母も、当たり前ですが、だんだんと年を取って行きます。よく、肩たたきをしたり、足裏に乗るマッサージをしたことを覚えています。
そして、いつだったか覚えていないのですが、ついに寝た切りになりました。寒い冬の暖房のために、蓄熱式のアンカを買って足元に入れたら、足を動かせないので、低温やけどを起こさせてしまったことがありました(ゴメンナサイ)。幸い重症化はしませんでしたが、深く後悔しました。徐々に衰えていくのが、目に見えて分かりました。年を取るとはこういうことなのだとも。
そして1月に自宅で亡くなったのです、70歳でした。死に顔をスケッチした記憶があります(今回、見つかりませんでしたが)。近親者の死に目に会うのはこれが初めてで、やはり強い衝撃を受けたのでしょう。それが上の「あの印象」という言葉になっているのだと思います。

葬儀は、自宅の庭に面した8畳間に祭壇をしつらえて、行われました。

残された4人の家族は、沈痛の面持ちですね。当日は、親戚の方々も参列していました。でも、親戚付き合いがあまりなかったので、ほとんどの人は知らない方々でした。唯一、竹内銀二さんという方は、以前、我が家を訪ねてきたので覚えていました。昔、祖父の洋服屋さんで働いていた方です。

祖母の死を契機に、我が家の生活は大きく変わることになります。世田谷奥沢町3丁目の自宅は、以前に書いたように家屋は建てたものでしたが、敷地は借地でした。確か西隣の畑の所有者である渡邊さんという方のものだったと思います。このころには、もう隣の畑も宅地になっていました。詳しい事情は、当時の筆者には知る由もありませんが、最終的に翌年(1962年)の6月に祖師ヶ谷大蔵に引っ越します。さらにその次の年に相模大野にアパートを借りて仮住まいをし、最終的にそのアパートのすぐ近くに家を新築して、1963年12月にそこに引っ越しました。

なんとなく2年生に
少し先走りすぎました。1961年の4月20日に戻ります。この時点でもう2年生になっているわけで、2年のときはF組、担任は英語の伊藤秀一先生でした。20日の日付の箇所には、祖母が死んだ記述以外に、いくつかのことがと混ぜこぜになって書かれています。一つは、「去る3月1日にBlenda Leeが死んだんだ。出た映画は魔女的な映画だったが、激しさの中に優しさがあるような美しかった人。26才の若さだ。Sylvia Lopezとならんで惜しいことをした。」とあります。追悼のために、もう一度、Belinda Leeの写真を掲げます。

もう一つ書かれていたことは、「僕が、急に日記帳を取りだしたのは、Robert Fullerが17日の午前2時に来日して、そのTV番組があったからだ。」「Robert Fuller “Jess”が日本にやってきた。もちろん『ララミー牧場』の主演者の一人。」「非常にいいひとに感じた。胸がすがすがしくなるような。飾り気がなくて。チャンバラの立ち回りや歌、踊りなどで歓迎。最後の方には涙ぐんでいた。こんなに歓迎されてうれしい。Very very happyといっていた。」「僕はあの “Jess” Robert Fullerのあの顔を忘れない。」
当時の彼の人気はものすごく、来日の時は大歓迎されました。その様子がしのばれるページがあったのでリンクさせていただきます。上に書いてある「そのTV番組」とは、ララミー牧場のドラマの時間枠に、特別番組として放映された「ジェスが日本にやって来た」のことを指します。

生い立ちの記(12)に書いた山口誓子のことが書いてあるノートの間に、次の写真が挟んでありました。映画の友の付録だったかしら、憶えていません。

また、同じノートに次のような黄ばんでしまった半券が挟んでありました。

5月4日に、東京都体育館で行われた「ロバート・フラー、チャリティーショー ララミー牧場大会」入場券です。ちゃんともぎられているので行ったようです。いや、確かに行った記憶があります、ショーの内容は憶えていませんが。このショーは公開録画で、やはり特別番組として同じ日の夜に放映されています。

ロバート・フラーは5月7日に日本を離れて帰国します。「映画の友」臨時増刊ロバート・フラー号(7月号)は、滞在中に訪れた東京、そこから20日に福岡、22日に大阪、23日に京都での写真などが満載された号になっています。屋根裏に、この本がきれいな形で残っていました。

この雑誌から3枚だけ、写真をスキャンして貼り付けておきます。1枚目は飛行機が大幅に遅れて深夜2時に到着、それでもファンが残っていた写真。2枚目は当時の池田勇人首相の私邸で歓談、下は白木屋屋上でのサイン会。3枚目は5月4日の東京と体育館でのチャリティーショーの様子と、日赤社長から有功章を受ける写真。このショーは「日赤子供の家」の資金集めのため行われたのです。昼夜2回あり約一万六千人のファンが集まったとあります。筆者もその中の一人だったわけです。

水上寮での林間学級
こうした書き込みの後、またもプッツリと書き込みが無くなっていて、次の日付は8月6日です。夏休みの水上寮へ行ったことが書かれています。新宿高校は、海近くに上に述べた館山寮があるほか、山の方にも群馬県水上市に水上寮を持っていたのです。実際には高校ではなく、一般財団法人の朝暘会が運営管理をしています。所有していたと過去形で書いたのは、この項を執筆している時点で、寮の建物が老朽化したために利用されなくなり(2006年)、土地を市に返却したために、無くなっています。

この水上寮で林間学級が行われました。5泊6日の日程です。日記にの書き出しは次のように書かれています。
「8月6日(日) 夏休み中の行事の高原から帰ったところである。水上の朝暘舎に、1日から6日間行っていた。そのことを書こうと思う。」最初の日は朝5時に起きて家を出て、上野まで。7時集合なのが、相変わらずの遅刻常習で、7時10分についたようです。そこから上越線で水上駅まで。第Ⅲ期なので、前の期と交代するために河原で昼食を取り、その後、ボートに乗ったり、唯一公認の喫茶店ヨネモトへ行く、と書かれています。明朝は早いので、「寝たのは8時かな9時かな」

翌朝(8月2日)は6時10分に駅を出発して、上越線の2つ先の土合へ。この日は谷川岳登山のようです。日記の記述から、その日の行動を下の地図(山渓のページより拡大地図をスキャン)で説明すると、次のようになります。

土合駅から西黒尾根登山口へ行き、そこから登山開始。ガレ沢の下で休みを取り、そこから尾根に出てザンゲ岩へ。ここで雨が降り始め、しかも雷が鳴りだしたので、「頂上はあきらめて、ザンゲ岩でザンゲしており始める。」帰りは西黒尾根ではなく、厳剛新道を通ってマチガ沢出会いまで。そして「特別に一ノ倉沢出合まで行った。雪が残っていて冷たい風が吹いている。水が冷たい。ついたて岩がそびえている。」こんな景色を見たのでしょう。山渓の上述のページよりお借りしています。

「そして帰舎」

翌日は休養日で、ゆっくり過ごし、翌日朝が超早い尾瀬ヶ原行きに備えました。8時に寝て11時半に起き、沼田駅からバスで戸倉へ。午前2時半から歩き始めました。後は下の地図(下手な図ですが)で説明します。地図の実線はバス、点線は徒歩の行程です。

戸倉から地図上を時計回りに進みます。この日も雨に会いました。雨の中を藪の中の道を歩いた記憶があります。鳩待峠を越えて、至仏山荘経由で、尾瀬の湿原に出て、ニッコウキスゲが咲き誇っている湿原の木道を歩き、2時ころ弥四郎小屋に到着、ここで一泊しました。日記には、「一面にわたる緑の草原(湿原です)の中の板の道を通ってテクテク歩く。途中で橋がなかったりして大変。よそ見をすると板の道から落ちちゃうンで周りの景色をよく見られない。ニッコウキスゲがさいている。」とあります。お天気が良ければ、下のような景色だったのでしょうが。画像はここからお借りしています。

「夕方に外へ散歩。道を外れた丸太の上で、佐藤容子さん、谷原庸子さんらとお話をする。夕焼けの雲が『砂漠みたい』、三人ともロマンチストだそうで。」この夕焼けの景色、よく覚えています。

8月5日は7時半に出発。一つ峠を越えて尾瀬沼へ。雨が降っているので、尾瀬沼は船で渡りました。長蔵小屋で昼食を食べながらしばし談笑。沼沿いに南へ下り、三平峠を越えて沼田街道を大清水へ。またバスで、戸倉を経由して沼田へ。「バスはよくゆれた。」そこから水上まで電車で戻り帰舎しました。

翌日(8月6日)は「帰る日です。なんと早かったこと、六日間が。八時に飯が終わってボートをこいでヨネモトへ。ソフトクリームと氷あずき。十一時に昼飯をたべて又ボートへ(どうもまっすぐ進まなかったのがうまくいくようになった)。二時に出発。あと三時間たらずで家へつく。佐藤さんと谷原さん、上村君と僕で席につく。唄ったり話したりで上野へ。そして家へ。  短い期間だった。楽しい時間だった。」

朝暘祭での演劇と歌劇
こうした書き込みの後、またもプッツリと書き込みが無くなっていて、次の日付は10月10日です。この日は台風24号の影響で学校は臨時休校でした。4時ころ久保田君の家に行き、喫茶店「カトレア」で8時ころから11期までしゃべったとあります。真面目な話題だったようです。でも喫茶店カトレア、憶えていません。
そして、この日付の下に、9月21、22、23日に開かれた朝暘祭でクラス企画として劇をやり、音楽部として歌劇をやったことが書かれています。これらはよく覚えているので、少し書きますね。

クラスの企画は、「春雷」(林 黒土、未来社、1959)という一幕ものの劇の上演でした。この本は未来社が刊行する未来劇場シリーズの一冊で、作者のことばや舞台装置の挿絵を含む、台本形式の本です。この本、今も持っていました。

舞台への登場人物は4人のみで、父・中村文平(40歳)、母・伊豆子(38歳)、長男・進(18歳)、長女・弥生(17歳)、あと声だけ出演の麻生(弥生の同級生)と郵便配達夫がいます。
舞台の時は、1953年4月上旬の夕刻から夜半、所は、熊本の在に近い福岡県の小都市の中流家庭となっています。
舞台は、進の大学受験の合格発表を待っている夕飯時から始まります。阿蘇の火山研究所の助手である文平は、普段は研究所に詰めているのですが、この日は合格発表のために帰ってきています。明日が発表の日ですが、伊豆子が裏から手を回して発表前に合格したかどうかを電報で受け取れるように手配をしていて、夕食の場は、なんとなく緊張した雰囲気です。弥生は父とウマが合い、進はどちらかと言えば母とウマが合います。そんな中、伊豆子と弥生がぶつかり、弥生はみぞれが降り出した外に飛び出してしまいます。遠く、また近くで春雷がなるのが聞こえてきます。少したって電報の声に出てみると、受取人は文平で、阿蘇が様子が変わったので研究所に戻ってほしいとの文面、合格通知ではなかったのです。ここで進が告白、伊豆子は進が理科を受験すると決めつけていたのですが、進は黙って文系を受験したのです。理系でうだつが上がらない夫への不満から、着々と長男を理系の国立有名大学へ進学させようと思っていた伊豆子の目論見は、崩れ去ります。進は謝り、濡れネズミで戻ってきた弥生も母親に優しい声をかけ、春雷は遠く去ります。

この劇の中村文平役で出演しました。写真は卒業アルバムからスキャン。ちなみに伊豆子は野坂翠さん、進は谷野征雄さん、弥生は井室喜久子さんでした。舞台に立っている人以外に、演出、大道具、小道具、照明、効果音係などがいたはずですが、だれがどんな裏方をやったのか、全く覚えていません。上の写真で分かるように、大道具が作った舞台装置はよくできていますよね。正面やや右のカーテンが下がった出入り口の上には、山の絵がかかっている、と台本にあるのですが、確かにこの舞台でも絵がかかっています。山の絵だったかどうかは憶えていませんが。下の図は、大道具の持っていた台本中の舞台装置の挿絵で、いろいろと書き込みがあります。

この本の冒頭の作者のことばの最初に、「春雷は季節の戸惑いであり、怒りであり、厳しい冬から脱皮しようとしている春のあがきでもある。」とあって、その後に演じる上での様々なサジェスチョンが書かれています。今読むと、結構難しい注文です。文平役はセリフも結構多いし、今、この台本を見返してみて、全部ちゃんと覚えたのかしらと思ってしまいましたが、台本は使い込んだ跡があり、ト書きもかなり書き込まれていました、多分ちゃんと演じられたのでしょう。
日記には、「これを1日目の最初にやる。入りは上々、よくできた、評判もよし。」とありました。

もう一つは、音楽部の歌劇「手古奈」です。1955年に文部省の肝いりで、青少年の音楽活動を推進するために、安東英男作詞、服部正作曲で急遽発刊された台本でした。この辺りの事情は、ここに詳しく書かれています(和歌山大学教育学部紀要の嶋田由美氏の考察)。もちろん当時、このような事情を筆者は全く知りませんでした。ピアノ伴奏だけの50分ほどの歌劇です。
この本は、見つからないので、ネットで調べて下に載せました(日本の古本屋)。

この本にもやはり、舞台装置や登場人物の衣装のことなどが載せられています。

時は奈良時代より前、国府台を望む海辺の真間の里(現市川市真間)にいた美女の手古奈(手児奈とも)をめぐる伝説をもとにしたお話で、登場人物は、村人(男)の、くず人、鹿丸、鈴石、村人(女)のはま児、いら児、やじ児、村に居ついたあぜ彦、常陸の国司として都から赴任する途中の行麿、その家来、そして主人公の手古奈です。

幕が開くと舞台は海を臨む村の広場で、中央手前やや右に井戸があり、村人がたむろをしています。池辺晋一郎さんのピアノ伴奏で始まります。最初の場面の楽譜。

筆者はくず人役だったので、最初の女性陣の問いかけ「あっちは行ったりこっちへ行ったり、一体何をしているの」に、「ただ、歩いているだけだ」と応えるのですが、今でも旋律も歌詞もよく覚えています。続いて女性陣が、「あの空をご覧、海をご覧。よく釣れそうな日じゃないか、手古奈のことしか考えやしない、あはは、アハハ。」と揶揄するのです。村人はレスタティーヴォだけですが、アリアが確か3つありました。あぜ彦が歌うもの、もちろん主役の手古奈が歌うもの、それと行麿が手古奈が身を投げた後、井戸のそばで歌うもの、です。最後の行麿のアリアはよく覚えています。ここに載録されていたので載せておきます。

 狂ったのであろうか
 または求めて身を沈めたのか
 思えばあさまし 我が所業
 夢から醒めた心地する
 ああ、瞬く星よ
 月移り 歳かわり 幾千年の後までも
 真間の入り江に寄せ来る波は
 手古奈を偲ぶよすがとなろう
 そして 旅人はこの井筒にもたれて
 かりそめの幻を 懐かしむであろう

村人をはじめとして、はぜ彦、行麿までに言い寄られた手古奈は、思い余って入水して死んでしまうという話ですが、衣装も小道具もちゃんとしたものを使って、かなり本格的だったと思います。練習も随分としました。その結果、日記には、「もう一つの歌劇『手古奈』、これも入りは上々。」とあります。どうも写真が残っていないのが残念ですが。卒業アルバムにあった音楽部の部員の写真を、代わりに載せておきます。

いずれにしても、「二つもやっていそがしかったが、考えてみれば楽しい思い出だ。」とあります。

このころだったか、父兄面談があり、あとで母親にどうだったと聞くと、「楽しそうにやっていますよ。」と先生に言われて、成績のことは話題にもならなかった、とのことでした。2年生で履修した物理はまったく面白くなく、当初の予定である物理方面に進みたい、というのがぐらついていました。物理の授業のなかで、ドライアイスを使った慣性の法則を示す演示実験を有賀先生が行ったとき、摩擦は無視できると言われことに変に引っかかって、どうして無視できるんだと思った記憶があります。有効数字の桁数を考えれば、大きな違いがあるので無視できるという話でしょうが、普段の生活では摩擦を意識せざるを得ないので、なんとなく抵抗感があったようです。課外活動では楽しんでいるようですが、学業的には?が付きますね。

クラスハイキング
閑話休題、日記の10月10日の所には、もう一つの書き込みがあります。で、これが日記帳の最後の記述になります。「10月8日、一昨日、クラスでハイキングに行く。顔振峠と鎌北湖へ。参加者33名(担任の伊藤先生も参加しています)、西武線で吾野へ行き、顔振峠・鎌北湖へ。楽しき語らいをしながら、乙女の湖”鎌北湖”へ。」手元のハイキングの写真がたくさん残っているのですが、鎌北湖の写真がありませんでした。また、誰が撮影したかわかりません。

先生は、ちょっとお疲れかな?日記には、「飯を詰め込んでからさっそくボートへ。30分借りて乗り回し、井室喜久子さんと二人で乗って、30分超過する、、、、。」とありました。「春雷」の親子で乗ったんですね。

この他の高校生活としては、冬(たしか2月)にマラソン大会がありました。全員参加です。今の新宿高校では、立川の昭和記念公園で行われているようですが、このころは校門を左に出て、すぐに左折して新宿御苑の周りをぐるっと回るコースでした。3.5㎞ほどある距離を、男子は2周、女子は1周だったような記憶があります。

上に挙げた以外に,高校2年の時に観た主な映画は、若者のすべて・甘い生活・アラスカ魂・用心棒・荒野の七人・モスラ・草原の輝き・豚と軍艦・大学の若大将などでした。

成績は振るわなかったけれど、もちろん勉強もしています。英語の単語を書きだしたノートが見つかりました。Readingsでやったのでしょうが、ON THE PHYLOSOPY OF HATSという章の単語が書き並べられています。この文章は、Alfred George Gardiner(1865-1946)という人のエッセイで、これ以外にON CATCHING TRAIN、IN PRAISE OF WALKING、ON POCKETS AND THINGS、 ON A DISTANT VIEW OF A PIGなどの章の単語を書き出して和訳したものが載っています。Alpha of the Plough という筆名で著した「Pebbles on the Shore」の中に載ったもののようです。

このノートには、もう一人、Robert Wilson Lynd(1879-1949)の「I Tremble to Think」の中のエッセイ、SWEET、WITHOUT GLASSES、ONE’S HABIT、LIKING DOG、I TREMBLE TO THINKなどの文章の単語も調べられています。

今、書きだされた単語を眺めてみると、ずいぶんと難しいものがあるように思えます。上で引用した元の文章を見てみると、19世紀末から20世紀初めのイギリスの文章なので、いずれもちょっとしゃれた文章で、しかも凝った文章です。こんなのをやったのですね。これ以外に、William Somerset Maughamの「The Summing up」もやった記憶があります。これ確か、大学受験の定番だったように覚えています。

別のノートには、英語を丸々書き写したものがありました。出典がわからないので、教科書に載っていた文章かもしれませんが、「Home, Sweet Home」というタイトルで、この曲の作詞者であるJohn Howard Payneの前半生のことが書かれた文章です。「Just three hundred years after Columbus discovered the continent of America, a plump little brown-eyed boy was born in the Payne home on the sandy strip of Long Island, and his parents called him John Howard.」という文章で始まります。

4回ほど繰り返して書き写しています。この他にも、Prelude to Destiny、No work, no eatig、Rain、The Necklaceなどがありました。結構、まじめにやってるじゃん、でもほかの人はもっとやってたんでしょうね。卒業アルバムには教室で自習?してるような写真ありました。ただし、これは3年の時の写真のはずです。一番左端にいます。

そうそう、書き留めておかなければいけないことがありました。今はどうか知りませんが、当時、新宿高校では課外に講師を呼んで講演会をやったり、文楽の舞台をを見せてくれたりしていました。講演会で覚えているのは、串田孫一さんです。細かい話の内容は憶えていませんが、山行きや自然の話などだったと思います。よく憶えていることが一つあります。ご飯を食べていて、口の端にご飯粒が付いていたのを友人に指摘されたとき、慌ててすぐに取らずに悠然としていて、あとでそっととる。その心は、他人の言動にあたふたせず、自分の行動に自信をもって振る舞うことが大切だ、といったことだと思います。正確ではないかもしれませんが。

文楽では壺阪霊験記の壷阪寺の段を観ました。全体の話の筋は以下の通りです。「盲目の沢市は、妻のお里が明け方になると出掛けていくのに気付き、男ができたのではと疑い妻を問い詰める。お里はこの三年間、沢市の目が治るようにと壷阪寺の観音様に願掛けに行っていたと打ち明ける。邪推を恥じた沢市は、お里とともに観音詣りを始めるが、目の見えない自分がいては将来お里の足手まといになると考え、満願の日にお里に隠れて滝壺に身を投げる。夫の死を知り悲しんだお里も、夫のあとを追って身を投げてしまう。二人の夫婦愛を聞き届けた観音の霊験により奇跡が起こり、二人は助かり、沢市の目も再び見えるようになる。」壷阪寺の段では、満願の日、お里が沢一を先導してお参りへ行く場面から始まります。講堂で演じられたので、背景も簡単なものだったと思います。
 
阿波人形浄瑠璃の壷阪寺の段、YouTubeにあったので載せさせていただきます。観たのは、これに近かった記憶がありますが、もっと洗練され、熱演している動画は文楽劇場資料にありました。リンクを貼っておきます。

このころ、小林秀雄の本をだいぶ読みました。確か教科書に「ゴッホの手紙」が載っていたのだと思います。それで全文を読みたくなり、「ゴッホの手紙」や「近代絵画」「モオツァルト」最後に「様々な意匠」を読んだと思います。でも最後の作品は難しくて、よく理解できませんでした。講演に来た串田孫一や亀井勝一郎の本も読んだ記憶があります。

高校2年生の項はもう少し続きますが、長くなったのでここでいったん止めます。


科学と生物学について考える一生物学者のあれこれ