青雲の記2 駒場時代(二)

東京大学教養学部、いわゆる駒場での学生生活も二年目になりました。三学期までの講義については駒場時代(一)でほとんど書いてしまいましたので、端折りますが、本郷へ進学する前の最大の難関は「進振り」です。それぞれの科類から進める学部学科は決まっており、また定員もあるので、無条件に希望学科に進学できるわけではありません。進振りに使うのは、三学期間の総平均点です。これは履修した科目の百点満点の点数に単位数をかけて合計し、それを総単位数で除したものが、総平均点になります。ただし、理科の場合は重みをつけるために、自然科学系の科目である数学、物理学、化学、生物学はそれぞれが4単位ですが、4ではなく6を使って計算することになっています。6月に2学期までの総平均点と進学希望届けが配布されます。初めから生物学科の動物コースに進もうと思っていたのですが、ここは定員が7名です。この後の話になりますが、教養学部報に載った進学志望集計表によると、7月5日現在で希望者は12名でした(9月14日には9名になっていました)。ともかく定員の中に滑り込まなくては、希望は叶えられません。3学期を頑張らなくては。

宮沢賢治研究会
頑張らねばと書きましたが、別方面のアクティビティーもしています。手帳の4月2日の項に上野駅近くにある東京電力上野サービスセンターで午後5時から開かれた「宮沢賢治研究会」に出席と書かれています。確かに、この日に開かれた会に出席したのを覚えています。手元に残っていたガリ版刷りの資料は、相馬瑞朗さんの「賢治と一人の弟子」と「秋田街道」の作品解説のようなものの二点でした。このときのものかどうかははっきりしませんが、前者はそうだったと思います。
あの独特な語彙とリズム感を持つ詩を書く宮沢賢治のことが、本当に好きだったんですね。偶数月の第一土曜日に開催されるとのことで、この後、さらに一、二回出席したように思いますが、詩そのものの話よりも、賢治の人となりの話が多かったようで、その後は出席しなくなったようです。

クラブ活動 「生」の発行
さらにさらに、相変わらず生研のクラブ活動を盛んに行っています。この年は、新入部員が多数に上り、5月11日発行の名簿によると32名、女性もいました!(11月8日発行の「生」八号の名簿では出入りがあって25名になっていますが)。ともあれ、活動人数が増えたので、「生」を含めて生研の出版物の点数は飛躍的に増えました。新人山口不二雄さんはすでにキリキリ病に罹患しており、病状をいかんなく発揮します。また、改めて筆耕についていろいろと教えてもらいました。4月15日には「生」特別号として「生物学の現状と将来---自然科学系の諸先生に聞く」と題して、顧問である伊藤薫先生をはじめ駒場の生物系の先生方からの寄稿と、インタビューをして記事にしたものを掲載した号を、新入生へ配布するために作成しました。

そのすぐ後に「生」第五号をオリエンテーション号として発行しています。五号には、会長になった斎藤昌宏さんの「新しく部員になった諸君へ」をはじめ、副会長の水上勝義、片平洌彦、好田肇さんのあいさつが載っています。

春合宿・丹沢
4月30日から5月1日まで、丹沢で新入生歓迎の合宿をしました。札掛にある栄光学園の栄光ヒュッテへ泊り、付近を調査しました。このヒュッテは1年生の浜口哲一さんの縁で、 彼の出身校の栄光学園が所有する山荘、栄光ヒュッテを借りたのです。下の栄光ヒュッテの写真はここからお借りしています。電気がなくランプの下での一夜でした。あちこち歩いたらしいですが、どこをどう歩いたかは全く覚えていません。歩き回った時の写真が残っているのみです。順不同でギャラリーに載せます。

見学会
5月20日には、平塚の農林省園芸試験場の見学に総勢25名で行きました(現在はこの施設はつくば市に移転し、跡地は公園になっています)。そこにある人工気象室(ファイトトロン)を見ることが主な目的だったようで、自前の資料を作っています。「生」の記事によると、ファイトトロン内を案内してもらい、所長から説明を受けたり、柑橘類の品種改良の話を聞いたりしたようです。多分、ギャラリーの右下の写真に写っている、駒場の八巻敏雄教授のお世話で実現したのだと思います。

9月30日には、国立がんセンター研究所ウイルス部を訪れて、西岡久寿弥先生から免疫のお話を聞き、研究室を見学しました。総勢17名が参加しました。訪問の前に免疫の予習会を行っています。この時の写真はありません。「生」8月号に掲載された中島敏さんの見学期の最後には次のように書かれています。
「抗体生産理論にみられるような鋭い対立(分子生物っゼミの今堀(和友)先生は選択説を強く主張され、一方西岡先生は『免疫生物学』序文の表現を借用すれば、きわめて戦闘的な指令節支持者である。)に触れるにつけても、免疫学が今嵐のような発展期にあることを強く感じた。それとともに理論形成の背後にある、例えばカラム・クロマト1本を立てるのにも丸1日が費やされる等の実験の苦心を知ることができ、感銘をうけた。幾つかの疑問が解明され、最前線の研究に接することが出来て、満たされた気持ちを抱いて僕達は研究所を出た。」

このほか、10月22日には駒場で生研が主催して、電子顕微鏡についての講演会・学習会も行われています。

磯採集
6月19日(日)三浦半島荒崎海岸で磯採集とハイキング、生物同好会(後述)とジョイントの行事でした。下のようなチラシを作っていますが(このチラシの字は筆者のものです)、全く覚えていません。

夏合宿・苗場
7月22日から8月1日まで、苗場合宿でした。昨年度に続いて、苗場国際スキー場からの依頼による苗場周辺の生態調査です。この年は一年生の部員が大幅に増えたので、下のような冊子を作って念入りな計画を立て、かなり徹底的な調査が行われました。麻布高校の生物部の生徒も合流しました。

植物班、昆虫班、鳥班にわかれて、昨年と同じく、筍山、三国山から平標山、苗場山から赤湯と、スキー場を取り囲むような範囲を調査しました。鳥班は、下のスケジュール表にあるように朝早く起床し、朝食までの間に付近を調査しています。

10月6日発行の「生」七号には、リレー形式で「NAEBA合宿記」が掲載されていますが、そのうちの鳥班の柳生淳子さんの7月24日の部分を転載させていただきます。素敵な文章です(図は筆者が勝手に挿入しました)。
「7月24日(晴れの天気記号) 筍山
 鳥班一同目醒まし時計を持参せず。3時だぞと言い聞かせて寝るとまず1時半に目が醒める。二段ベッドが揺れて下のKさんも目が醒める。時々ハッとしながらうつらうつらしていると3時だ。今朝は植物のIさんを加えて7人、第5リフトの南側へ向かう。空が群青になり山の端が黒く浮かんでくる。国道を走るトラックがときどき光の三角形をつくっていく。遠く遠くヨタカ、ホトトギス。懐中電灯の光が野暮になったと思うまもなく、周囲の色彩がほぼ完全に判別できる程明るくなっている。4時から5時くらいが朝のさえずりであろうか、いろんな声が聞こえるが声のみでは同定しかねるのが多い。しかし、草深い斜面を登り、振り返って稜線を突き破る太陽を見た我々が下り始めたとき、目と鼻の先の藪から紛れもないショーチュイッパイグイーが聞こえたのである。気温の変化でレンズを曇らせあわてているMさん・・一騒動のあとは足下を水の流れる細道を露をよけながら林道へ下る。ヒカゲノカズラの密生する弾力性に富んだ道の歩き心地は最高。しかも浅見川上流にあたる美しい沢に出る。鳥の声も人の声もかき消される激しい流れ。日向が恋しくなる冷たい空気。林道には早くも熱気がたち始めていたが、名前不明とはいえムシクイ類の姿を心ゆくまで眺められたことが収穫だった。なるほど青虫などくわえてお食事らしい。我々も宿舎が見える所まで来ると急に空腹が身にしみる。思えばこれから一日が始まるところだ。

 朝食後植物班の出発を聞きながら眠りに落ちる。午後は筍山へ行くという話も出たが、あの細道の魅力と餌置場の決定のため同じコースを行く。第5リフト南の針葉樹林では中でも高い木のてっぺんにヒヨドリが来てずっと鳴いている。それでも色を識別するのは容易ではない。炎天下に座り込んで遅い昼食。アリが這い登って来て佃煮に関心を寄せている。例の道も暑く、靴と草のすれる音だけ。真昼の沈黙の中で遠くギ―と聞こえたり、青空をバックにホオジロが近くの梢にいたり。人間として侵入したことを忘れさせる。沢で30分余休憩。そろそろ出発しようかという時、目の前を黒い大きな鳥が横切る。白と青も見えたようだ。対岸に、岩をむき出している崖があり、その辺りに群がっている。図鑑を見ていたIさんがカケスだという。そういえば飛び方、すみか、羽の縞模様すべて一致。あちこちで聞いて不明だったものもカケスらしいとなるとがっかりしてしまう。4時近く、まだ日は高いが、よく茂った林の奥からはセンダイムシクイが聞える。一日中全くいい天気だった。朝行った道に分かれ、浅見町へまわって食料購入。一部胃袋にも入れて、また国道をテクテク。夕方の風が快く、宿舎に帰った。」

サントリー日本の鳥百科カケスよりお借りしています。

「生」9号に載っていた筆者の記事を、原文のまま載せてみます(図は筆者が今回、これを書くにあたって挿入したものです)。鳥班の班長であった筆者は、次の文章の冒頭部分にあるように、餌場を置いたり、定点観測地点を置いたりして、記録するために鳥を追いかけました。写真を撮ろうと、500ミリの望遠レンズを購入して試みましたが、あまり良い写真は撮れませんでした。唯一、キセキレイの写真がうまく撮れたれた記憶がありますが、ネガを含めて手元に残っていません。スキー場に記録とともに置いてきたのでしょう。。
鳥について―思いつくまま
「鳥といえばスズメしか知らない僕であったが、ちょっとした興味も手伝って、苗場の調査では鳥を受け持つことになり、望遠レンズを抱えて駆け回ることとなった。初心者としての苦労はいろいろあったが、ともかく鳥を追いかけるのは楽しかった。前もってテープで聞いた鳴き声を突然に聞いた時、キセキレイを夢中で追いかけたときなど、楽しかった。

 ところで余程興味のある人でない限りあまり鳥については知らないだろうと思う。やはりスズメのみというくちであろう。実際日本では鳥についての本があまり出版されていなかった。近年ぼつぼつ出はじめてきている。欧米では良いガイドブック等が出ているようである。しかしこれは元来日本人が鳥を自然の一部として鳴き声や姿を楽しみ、獲って食おうなどというさもしい伝統が余りないことにもよるのだろうと思う。何でもそうだが興味を持てばおもしろいし見方も違ってくる。今まで点景にも入らなかった駒場の鳥たちも、興味を持ってみると、色々な種類の鳥がいろいろなポーズで駒場のキャンパスにいるのを発見するだろう。そして飛翔の姿を見て「あれはヒヨドリだ」などとつぶやくのも又楽しいものである。
 鳥類は脊椎動物門鳥綱に属し日本には更に21目55科410種に分類されている。ただしこの数はただ一回捕獲されたものも含めているものである。世界では約8600種の鳥がいる。
 鳥の体の構造は、体を軽くするため骨が中空になっていたり、気嚢があって酸素消費量の能率向上を計っていたり、竜骨突起が発達していて強い飛翔力を出せるようになっていたり、いろいろ飛ぶことに適応している。強い飛翔力といえば伝書鳩を飼った経験がある。伝書鳩を飼う楽しみは何といっても飼いならすことによって放しても巣に帰ってくるということであろう。強い羽ばたきで青い空をバックに飛ぶのを見ると、イカロスの昔から人間が空を飛びたいという強い憧れがよく解るような気がする。ところで鳩がミルクを出すのをご存知だろうか。もちろんミルクといっても哺乳類のように乳房からでるのではなく、口から出すのである。このクロップミルクは親の食べた穀物と嗉嚢側壁内部にある嗉嚢腺の崩れ落ちたものである。ヒナはこれを口うつしに受けるのである。

右側が親です。YouTubeのこの動画からコピーしました。

 この鳩というのがとんだクワセ物で、平和の象徴とは名ばかり実際はなかなか残酷な奴である。下手をすると一緒に飼っている片方が丸裸にされてしまう。鳩でさえこんなふうだから肉食のオオカミ同志の喧嘩はもっとひどい経過をたどるだろうと思うかもしれないが、実際は決してそうではない。オオカミでは弱い方が負けそうになると、パット「降伏」の姿勢をとる。つまり自分の首筋を相手の牙の前に差し出すのである。すると一方は攻撃できなくなってしまう。そのような姿勢が彼の行動に強くブレーキをかける訳だ。それで負けた方は逃げる機会を得るのである。
 上に述べたクロップミルクの給餌は、親がヒナの嘴をつつくとヒナは親の胸をつつく。こうしてミルクが給される。こうした行動はプロラクチンの分泌によるミルクの準備と視覚的刺激が必要である。このようにある内的要因が整うとある刺激によって本能行動のサイクルが完成する。このような刺激をリリーサーという。もう一つよく知られた例を挙げよう。イトヨの生殖行動についてである。この時期にはオスは婚姻色という顕著な色を具える。そして下図(注:実際は線画)のような一連の行動が起きる。このリリーサーとなるものは、雄の婚姻色とダンス、雌のふくれた腹である。このようにリリーサーとしては視覚的刺激が重要である。鳥についてもこのような研究はティンバーゲン等によって研究されている。鳥の美しい羽色もただ人間が見て美しいというのではなく、その種族にとっては重要な意義があるのだろう。ところで人間が化粧をするのは、やはりこんな目的のためではないだろうか。」

大分、関係のない文章まで長々と引用しましたが、上に書いたように昨年と違い夏合宿の写真がほとんど残っていません。唯一、帰りの電車の中のスナップがあるのみ、みんな読書しています。といっても読んでいる(見ている)のは漫画です。当時、漫画週刊誌がオオハヤリ。大学生はみんな「少年ジャンプ」や「少年マガジン」などを読んでいたのです。

この時の調査の結果は、「生」七号に目録として、植物、蝶、鳥、ハチを掲載し、さらに第七号別巻として40ページの「苗場国際スキー場周辺の蝶類・甲虫類総目録」を発行しています。

駒場祭
11月は駒場祭の季節です。11月12日、13日に開催されています。

生研は、駒場祭のためにかなり立派な冊子を作成しています。今回のテーマは「さいぼう CELL」です。「はじめに」が、次のように綴られています。
「1938、39年 シュライデン、シュヴァンの細胞説が発表されたころから、生物学においての細胞研究の重要性が認識されてきました。19世紀、光学顕微鏡による数々の発達、そして現在の細胞学は電子顕微鏡を用いた形態学的なアプローチと生化学を使った生理学的アプローチが見事に結合した生物学のもっとも発達した分野の一つとなっています。我々はこれまで一年間の読書会、見学会、講演会等に学んだことを、この広範な「細胞」というテーマの下にまとめてみました。
 来場して下さった方々に現在の生物学の発達を理解していただこうと、模型、写真、図解を主とした視覚的な説明を試みてみました。皆様に、われわれ人間をも含んだ生物というものを知って頂き、生物を好きになって頂ければと思います。生物学研究会一同。」

駒場祭での生研の展示内容がわかる写真は手元にないのですが、上にあるように、模型、写真などを使った展示を心がけました。なかでも目玉となる、細胞の断面の大きな模型を作りました。断面といってもスパッと切ったものではなく核の部分は盛り上がっているような立体的なものです。確か発泡スチロールを削って作り、色を付けたように記憶しています。写真がないのが残念です。ちなみに冊子の目次を見ると、はじめに、細胞学の歴史、細胞の大きさと種類、構造と機能、遺伝、細胞の分化、ガン―その生物学的アプローチと続き、最後に図版ページが4ページあるという構成で、よく調べて書かれています。

冬合宿・丹沢
12月17日から18日は、春と同じように丹沢の栄光ヒュッテでの合宿でした。ここでも合宿パンフレットを作っています。表紙と、パンフの中にあった、札掛けの栄光ヒュッテの位置を示す地図を載せておきます。ヒュッテには、小田急線大秦野駅(現在は秦野駅と呼称変更)からバスで蓑毛まで行き、そこから丹沢新道を歩いてヤビツ峠を越えて、川筋をたどって札掛につきます。

春合宿の項でも書きましたが、電気がなくランプの下での集会とダベリング。雰囲気だけでもと、写真を載せます。

この日の夕食はカレー、夜食はお汁粉だった模様。上にダベリングと書きましたが、写真から見ると歌集を片手に歌を唄ったようです。
翌日は6時に起床、朝食の後、山登り組は長尾尾根から稜線伝いに三ノ塔を経由してヤビツ峠へ、昼寝組は、ヒュッテから丹沢新道を下り、菩提峠、ヤビツ新道を通ってヤビツ峠で山登り組と合流と、予定表にあります。ヒュッテの入り口で撮った写真と、参加した一年生の女子部員三人組の写真です。

筆者は昼寝組で、写真を撮りながらテクテクと歩きました。途中はこんな感じ。

上の写真にあるような、比較的平らな山道を歩いてた時に、少し離れた草原を駆け抜けていくシカの一団を見ました。野生のシカを見るなんて、初めての経験でした。と、こう書いた後、「生」10号を繰っていたら、丹沢合宿記の記事の後に、浜口哲一さんの「自然の通信 鹿見の記」という記事があり、冬合宿とは別に9名が1月7日夜に栄光ヒュッテに宿泊し、8日の朝早くシカを見るために出かけたとありました。この辺りでシカの餌付けをしている中村先生という方に案内してもらったようです。記事から引用します。
「(前略)丈の高いススキの中のけもの道をたどって、開けた場所に出たとたん、すぐ向こうの斜面を2頭の鹿がすごい速さで駆け下りていった。続いてまた3頭、カメラを出す暇もなかったと森谷氏の嘆くことしきり。、、(中略)、、帰途につこうとした時、足元はるか下の斜面で、連続的なヒズメの音が聞こえた。見下ろすと、7頭の鹿がつながってかけていく所だった。落ち着いて双眼鏡を覗く暇もなかったのが残念だった。(後略)」
脳裏に焼きついている景色は、これだったんですね。

自然科学系サークルシンポジウム
1月に表記のように駒場の自然科学系サークルが、「科学による自然の破壊を考えよう」というタイトルでシンポジウムを開き、資料集としてかなりのボリュームの冊子を発行しています。生研は農薬禍の問題を取り上げています。でも詳しいことは何も憶えていません。

春合宿
1967年3月4日から6日にかけて、三崎臨海実験所で春合宿をしました。毛利秀雄先生に引率してもらったようです。「生」11号に合宿記が載っていますが、このときは雨の降る荒れ模様だったようで、思うように和船こぎができなかったようです。昼間は実験所のプール室で、ウニの発生の観察と酪酸による単為発生の観察、採集してきた磯の生物の観察、プランクトンの観察などを行いました。夜は宿舎の大きな和室で今後の活動についての話し合いをするが、撃沈するものも。

文中、「アルキメデスのちょうちん」は、「アリストテレスのちょうちん」の間違いです。

生物学同好会について 
前年度の駒場祭の折に、来場者と話しているうちに(多分)、生物に興味を持ちながら接する機会のない人々に、その機会を与えることを目的に「生物学同好会」を作って、観察会や採集会、見学会などをすることになりました。生研の部員は、自動的に同好会の会員となり、観察会などでの説明役を務めます。毎月第二日曜日に、観察会などを行うとあります。同好会のために、パンフレットも作っています。

手元に残っていた写真を見ると、筆者は全部ではなくいくつかの行事に参加しているようです。ちゃんと撮影日時の記載がないのですが、手帳の記載と照らし合わせると、1966年7月16日には上野動物園へ行って、ゴリラのブルブルを見ています。飼育場の隅で向こうを向いているばかりでした。確かこの頃ブルブルは精神的に不安定だったように記憶しています。下の方の写真の人物は、同好会会員ではなく、生研の部員で、上の鳥班の記事を書いた人す。

これは、新宿御苑か目黒自然教育園での写真だと思います。日時不明です。

1967年3月19日には多摩動物園に行っています。下の3枚の写真は、中島敏さんからいただいたものをスキャンしました。集合写真はかなり大判の写真でした。

クラブ活動総括
こうしてみると、ずいぶんの時間をクラブ活動に費やしているようですね。生物学研究会は、駒場の2年間だけ活動するクラブですから、1967年3月で筆者のクラブ活動はおしまいです。後輩が「41年度生研2年生の横顔」と題した「生」の特別増刊号を出しています。”第2出版局設立””創刊号・”同局解散”最終号だそうです。筆者について書かれた部分を載せておきます。(原文のママ、複数の人の文らしい)
「彼ほど”森谷ちゃん”と親しく呼ばれ、彼ほど頼りになる男性はいない。体はがっちりとしていて、本当に「気はやさしくて力持ち」といった感じである。苗場では、例の500ミリを持ち歩き、鳥の写真を撮りまくり、また例の〇〇力を見せてくれました。
 森谷ちゃんといえば、すぐカメラをいじくったり、鳥を追いかけて写真にとったり、時には女の子を追っかけてこれまた△△△写真を撮ったり(?)することだけを思い出すかもしれません。しかし彼と色々と話をすると、彼が非常に博学であることを知るだろう。とにかく映画の脇役から全部知っているんだそうです。又特にXXの方は・・(ウィシシシシ)。私も一回後者の方を聞きたいと思っているのですが。なに!”特に”以下が知りたいって。それは彼と飲みあかせばわかることだよ!
 彼はまた、本当の平和主義者であり、戦争と聞いただけで寒む気がし、戦闘機や爆弾の話を聞くとじんま疹が出るそうです。(注:このことは別に彼が言っているのではなく、筆者である私がそうではないかと思っているのです。)ところで、彼が何故このような平和主義者になったかと考えてみると、一番大きな原因は彼が戦争を実際に経験し、そのみじめさを知っているからではないかと考えられます。とすると、彼の年令は?(ヒント:3月の同好会で、彼がある女性を妹であると言って紹介したそうです。ところがよく考えてみると、その妹さんのほうが学年が上でなければならないのです。そのことを言われて彼は赤くなったということです。)
 その日彼は風邪をひいていたにもかかわらず(このとき初めて人間であることが証明された。)、人がいいのか、〇〇なのか、とにかく人付き合いのいい彼は我々との飲ん方につきあってくれました。何しろ生研の二大怪獣である森谷、水上氏と調子を合わせていた私は早くも9時半にダウン。その後はほとんど覚えていないのであるが、寝る時、私はさっきまで腹に詰め込んだものを出したらしく、その後始末を森谷ちゃんがやってくれたということを後で聞いて感謝しました。ところで森谷ちゃんの方は、風邪をひいているため体が酒を受け付けないらしく、便所に行って吐きながら飲んでいたそうです。(結論:結局彼の酒は酔わない酒なのです。もし酒に自信のない人がいたら、彼と一緒に飲むと絶対に間違いありません。)それからこの怪獣どもは、まだ飲み足らず外に飲みに行ったとか。」
この飲んだ時の話は、よく憶えています。ただし、そんなに酒豪ではなかったです。

講義、その他の学び
駒場時代(一)では触れませんでしたが、教養部のカリキュラムの中には、一般教育演習(ゼミナール)という科目があって、少人数ゼミ形式の科目が多数開講されていました。確かこの年から、1年生も一学期から選択できるようになったのだと思います。教養学部報に内容の紹介が載っているので、それを見て履修登録をするのです。筆者は3学期の間に合計8コマ履修しました。基本的には生物関係のものでしたが、成績表の教官の名前から判断して、化学系のものも少数、履修したようです。ただし、どんなことをやったかほとんど憶えていません。唯一、憶えているのは伊藤薫先生のゼミで、きわめて少人数、確か6名ほどで、英語の本の輪読会でした。本のタイトルは「Unitary Principle in Physics and Biology」、著者はLancelot Law Whyteです。コピー(青焼きでした)をもらって、順番に訳していきました。しかしながら、内容が抽象的過ぎて、よくわかりませんでした。

あとは、自主的に輪読会をやりました。たしか生研の稲垣冬彦さんが音頭を取ってやったと記憶しています。ちょうどワトソンの「Molecular Biology of the Cell」が出版されたところでした(1965年)。すぐに海賊本屋さんが、風呂敷包みをもって駒場にやってきました。この頃は、洋書を買うのは容易ではなく、出版されるとすぐに海賊版を作って売り込みに来る海賊本屋さんが駒場にも出入りしていたのです。そこからWatsonの本とIngramの本を買って、輪読会をしたのです。

写真製版なので、網掛け部分はかなりつぶれていました。もちろん、全部読み切ったわけではありません。

こうして三学期の終わり近くに、運命の進振りの結果が出ました。かろうじて理学部生物学科動物コースに滑り込むことができました。定員は7名でしたが、発表された進学者は、榎並淳平、太田秀、木村邦彦、草薙隆夫、佐藤寅雄、筆者のは6名でした。四学期は、三学期までの時間割と大きく異なり、下の写真のように理学部の時間割となり、語学、体育実技以外は、本郷から専門課程の教員が教えに来ました。それと教職課程の科目である教育原理や教育心理が加わります。四学期の時間割はこんなものでした。

時間割に〇が付いているのと残っているノートから判断して、量子化学序論、生物学概論、有機化学総論、分子生物学、電磁気学、生物化学概論をとったようです。生物学概論は、植物コースの教授であった田中信徳先生の講義で、なんとなく覚えています。残っているノートもかなりちゃんとしていました。やはり遺伝から入りましたが、進化や生態系など、植物から見た生物学でした。

プライベートライフ
駒場時代(一)に久保田光博さんの家に入りびたり、と書きましたが、駒場の二年目もやはり彼の家によく行き、泊まったりしていました。夜じゅう議論することをしょっちゅうしていた記憶があります。高校時代に哲学研究会と称するものをつくり、横井正豊さんを加えて三人で(時に中村直人さんが入ることもありました)、いろいろ議論し、書いたものをお互いに批評しあっています。今回、速記録のようなものが残っているのを見つけました。哲研は機関誌のような定期的なものをの残すことはできませんでしたが、ガリ版刷りの印刷物が何点か手元に残っていました。そこに筆者が書いた「一人の感激した男(十二人の怒れる男を見て」というのと、「PSYCHOANALYTICAL PHANTASMAGORIA」というタイトルの短い文章が載っていました。この頃、ノートに書き散らした、未完の創作物がいくつも残っています。こうした活動の集大成が「カオス」の刊行でしたが、これは翌年のことなので、後程書く事にします。ただ、文章はこの頃、書いたものを推敲したものでした。

久保田さんの家に入り浸っていたので、必然的にお姉さん(Pollyと呼んでいたので、これ以降はこの表記を使うことにします)ともよく顔を合わせることになります。少し戻ることになりますが、この年の初めに、詩をたくさん書いたノートをもらいました。中原中也詩集を貸した御礼にもらったのです。中原中也の「山羊の歌」や「在りし日の歌」より選んだ詩や、彼女自身の詩が書かれていました。そのノートには、筆者がその頃、書き散らした詩を書いたノートのページが挟んでありました。こんな詩です。

   無題
 やっぱりそこの光の中に
 渦巻く白いつめくさの
 花の飾りを髪にさして
 ホラ あんなにかけてゆく
 小さい格子の女の子は
 昔の僕の面影さ

 昔は僕もあんなふうに
 緑の土手を訳もなく
 ただ一散にかけたっけ

 だけどこうして歩いていると
 昔の僕がなつかしい
 きみだって緑の中をかけたろう
 ホラ あの電信柱
 赤い屋根の横にある
 あそこのところまで
 二人でかけてゆこうよ
             1966/2/22

   蝶
 町の中の蝶は
 ヒラヒラと
 ウィンドウに青空を見て
 ウィンドウに緑を見て
 ヒラヒラとぶつかりぶつかり
 虚しくぶつかり
 ヒラヒラと

 私の蝶は
 ヒラヒラと
 貴女の心に青空を見て
 貴女の心に緑を見て
 ヒラヒラとぶつかりぶつかり
 虚しくぶつかり
 ヒラヒラと
             1966/2/28

   無題
 置いてきたはずの悲しみが
 俺の心にしのび込み
 忘れてきたはずの思い出が
 俺の心をふるわせる
 深く沈んだ闇の底で
 眠りを求めて漂い漂う
 俺の心を時計の針が
 鈍く激しくえぐり刺す

 眠りをこんなに激しく求め
 息を殺して闇を見つめ
 眠りをこんなに激しく求めて
 狂おしく虚しく
 眠りをこんなに激しく求めるのに
 妨げるものは何だ
 眠りをこんなに激しく
 眠りを
 眠り
             1966/02/28

音楽的な影響も受けました。Pollyも弟もピアノは弾けるし、ギターは弾けるし、と音楽的な素養がありました。筆者は小学校でのカスタネットと木琴ぐらいしか触ったことがなく、中学、高校と音楽部だったので歌は歌いますが、楽器には触れたことがほとんどありません。クラリネットを教えてもらったりしました。合奏でもやろうとしたのでしょうか、筆者がボンゴを買うことになり、4月に日本楽器銀座営業所にPollyと買いに行っています。5月と6月に手帳にPartyの文字が見えます。教養学部の卒業要件のもう一方であるダンスは、1年の時に900番教室で開催されるダンス部主催の講習会で講習を受けました。ジルバとワルツを習ったのだと思います。それを実践するために、誰かとダンスパーティーに行ったんだと思います。手帳には、誰といったか書いていないのではっきりとは憶えていませんが、Pollyと行ったのかもしれません。

どういうきっかけだったのかはっきりとは憶えていないのですが、たしか双方の母親同士に付き合いがあり、その関係で中学校の時の同窓だったH. Y.さんと、12月11日(ネガケースに記載の日付、もしかするともう少し早いかもしれません)に新宿御苑でデート、おそらくデートらしいデートとしては初めての経験だったと思います。

でもこれっきりで、この後またデートすることはなかったように思います。そんな中、Pollyに次第に魅かれていくようになりました。下の写真は2年生の終わりの春休みに撮ったものです。

駒場時代の終わりに
駒場時代の最後として、4学期間の成績表を載せておきます。ただし、四学期に行われた専門課程の成績は記入されていません。知らされた記憶もありません。今見ると、成績あまりよくありませんね。ほんと、滑り込みだったようです。


科学と生物学について考える一生物学者のあれこれ