青雲の記3 本郷学部時代(一)

希望する理学部生物学科動物学専修に何とか滑り込み、1967年4月13日に理学部第二講堂で進学式があり、本郷に通うことになりました。動物学教室がある建物は、赤門を入ってすぐに右手へ行ったところにある理学部二号館です。建物南側半分の2階と3階に動物学教室の教官室と研究室があり、地下に3年生と4年生の実習室が中庭に面して隣り合ってありました。部屋の入口に近い壁側には机が並んでいて、6名が座れるようになっています。中庭には、陶器の大きな甕がたくさん並んでいて、メダカが飼育されていました。

卒業アルバムより
ここよりお借りしています
同上

これらの2枚の写真は最近のもので、上の写真は東側をむいた正面玄関のある方、下の写真は入口を拡大したものですが、1967年当時とほとんど変わっていません。左側に見える金属製のスロープは当時はもちろんありませんでしたが。反対側の本郷通りに面した方も、これと全く同じ作りで、入口もこんな感じです。重い金属製のドアを開けて建物内に入ります。

進学式が終わった後、2階の講義室で簡単な歓迎会がありました。その席上、教室主任(たしか石田寿老先生)が、開口一番、実習室の自分の椅子に腰を掛けていないと落ち着かないようになってください、と言い、生物をやっていて飢えて死んだ者はいない、勉強せい、というようなことを言いました。全員が大学院に進んで研究者になるように思っている口ぶりでした。日記には、嫌な感じがしたと書いてありますが、実際には、筆者はそのような道を歩むことになるわけです。

いつ配られたのか忘れましたが、学生自治会とオリエンテーション委員会の作成した「理学部紹介」という冊子のなかに、動物学専修の紹介文がありました。以下に引用します(文章はおかしい所があるのですが、原文のままとします)。
「赤門を入りすぐ右に曲がる。金持の経済学部のビルディングを横目に見つつ本学で最もよろしき建造物と言われる2号館の裏玄関にたつ。すると、動物学科特有のにおいが新三年生をあたたかく迎える。動物科構成員の全体から見ると新進学者などはまるでお客様の様なもので極めて丁寧に扱われる。さて進学した翌日から授業が始まるわけだがその内容を少々記すことにする。実習はネズミの頭の解剖を行う。この実習も今年で2年目で以前は駒場でのヒキガエルの解剖で脊椎動物を代表させ本郷に来てからザリガニで無脊椎動物を代表させていたらしいが最近の学問の方向を考えてこの実習に入ったと思われるが仲々やりがいのある実習である。それが夏学期に行うものであり後期からまた異なる。講義の方は三階の動物学科講義室まで地下を合わせて都合四階を歩いて聴講するわけである。前期での必修科目は四科目であり朝9時から遅刻をせぬよう聴講することが望ましい。実習の時間をさいて他学科の講義も聞けるので総合大学の利点を大いに活用できる。夏休みに入る前に三崎の臨海実験所で分類の実習があるが早起きのプランクトン採集、磯採集、穴掘り、ドレッヂ等たいへん楽しいものである。さて冬学期になると実習は変り組織、発生学実習となり、講義は一科目へるXXXように3年では比較的授業時間は少ないので自由をXXができるが4年になるとそうはいかない。本来ならば暇な時間は無いハズなのだが実習とかレポートとかの事を往々にして忘れやすいので時間内に自分の頭で考えて終了させる心構えを予め肝に銘じておく方がよい。ところで動物学科は人数が少ないので家庭的だとか和やかだとか言われるがこの言葉は単に構成員が少ないという代名詞にすぎず必ずしも内容をあらわしているものとは言い難い。そのような雰囲気の中で自己の判断で活動することは難しいかもしれないが全ての人々が権力的意識に捕らわれず良識に基づいて自分の頭で考えて色々の面で活躍するならそこに真のAcademic freedomがあると言えよう。新3年生もこのことを十分心に留め本郷生活を素晴らしい物とする様期待する。」(Xは判読不能)

学部教育
当時は講座制の時代で、動物学教室には確か早くからあるナンバー制の3つの講座と生理化学(発生学)、放射線生物学(これは植物と一緒で半講座)がありました。第一講座は木下治夫教授、第二講座は藤井隆教授、第三講座はたしか竹脇潔教授が退官したところで空席でした。発生学は石田寿老教授、放射線生物学は秋田康一教授でした。

学部での教育は、上に書いた教授とそれぞれの講座の助教授・講師の先生方によって行われます。手帳を見ると進学式の翌日の午後から、動物解剖実習があり、15日には動物一般生理学開講、19日には動物分類学開講とあります。また組織学休講の文字があるので、藤井隆先生の組織学もあったようです。

屋根裏から見つかった昭和42年発行の理学部便覧には、「動物学を主とするもの」という表記ですが、以下「動物学専修」とします。動物学専修の学生が、第3学年及び第4学年に履修すべき科目の表があり、以下のように記載されています。
動物学概論、動物解剖実習、動物組織学、動物組織学実習、動物発生学、動物発生学実習(ここまで半年間で、以下は臨海実習を除いて1年間)、動物分類学、臨海実習(その1)、遺伝学実習、動物一般生理学、動物生理学各論、動物生理学実習、実験形態学、実験形態学実習、動物生理化学、動物生理化学実習、臨海実習(その2)、臨海実習(その3)。

基本的には、上の冊子の理学部紹介にあるように、午前中は二階の講義室で講義、午後は地下の実習室で実習の毎日でした。実習は、学期の間は、基本的に同じ科目を毎日、続けてやりました。

3年前期の講義と実習
講義で憶えているのは、藤井隆先生の組織学と江上信雄先生の動物分類学です。組織学は、先生が教卓に座り、古いノートを開いて淡々と講義していくといったもので、時々「、、がキラキラしてきれいだねー」というのが口癖でした。
動物分類学は放射線医学総合研究所に移った江上信雄先生が担当でした。いつも教室に入ってくるなり、深々と頭を下げて挨拶をしてから講義を始めるのでした。

動物解剖実習は、理学部紹介に書かれているように、ラットの脳の解剖から始まりました。脳の背面、側面、腹面の図を描き、矢状断の図と前頭断の図を前方から後方へ順に何枚も描いています。その後、脊椎動物のフナ、ウシガエル、イシガメ、アミメ、ラットの比較解剖をやりました。解剖は第三講座が担当で、当時助手だった木村武二さんと川島誠一郎さんが指導してくれました。イシガメの解剖は大へんでした。内臓を見るためには甲羅を切らなければならず、たしか金ノコをどこかから借りてきて、汗だくで切断した記憶があります。下の図は順に、フナ、ウシガエル、イシガメ、アミハラ(シマキンパラ)、ラットです。下の図は、今回スキャンして新たにネームを入れました。イシガメの右下の汚れは血糊です。

それぞれの動物の内臓各部の拡大図もあるのですが、省略します。

遺伝学実習が5月2日から始まり、前期、後期と続きました。植物学科の石川辰夫先生の指導で、植物学専修の学生と合同で確か植物学教室の実習室で行ったはずです。実験ノートが完璧に残っていました。ノートの最初に行う項目のおおまかな予定が書かれていました。「細胞分裂」「染色体」6月まで、「ショウジョウバエのかけあわせ」「アカパンカビ」9月~12月、「バクテリア」「phageのplaque, transduction」1月~2月。結構いろいろなことをやっていますね。全部の内容は憶えていませんが、レポートが残っているので、ちゃんとやったようです。
「染色体」は顕微鏡による体細胞分裂と減数分裂の観察です。次の図はその一部で、ヌマムラサキツユクサ(2n=12)を使って体細胞分裂を観察したものです。駒場の生物の実習でも似たことをやっていますが、さらに時間をかけて丁寧に観察しています。

同じ植物の根端細胞の減数分裂の観察、オンブバッタ(2n=19、XO)の減数分裂の観察、さらにコルヒチン処理やX線照射の染色体への影響を観察し、最後にセスジユスリカ幼虫の唾液腺染色体の観察、と続きました。

キイロショウジョウバエの実験は、野生型、ebony(体色黒)、vestigial(痕跡翅)、curly/l(翅がカーブ・致死)、white(白眼、伴性)の系統を使って、遺伝の諸法則の検証を行っています。管ビン、栓用の綿、ろ紙をオートクレーブにかけて、調合した培地を管ビンに入れ、麻酔をかけて雌雄を判別したハエ4つがい程をビンに入れて交雑させます。産卵したら親をビンから出し、待つこと10日ほどで羽化するので、これを麻酔をかけて紙にばらまき数えるのです。といった手順を習い、培地を作成し、実際に実験に入ります。レポートを見ると11月に実験を実施しているようです。ショウジョウバエの実験についての説明をメモしたノートと、培地作成などを書いた青焼きのコピー、それとレポートの冒頭の2ページを載せておきます、

一番最初の実験は、野生型と痕跡翅の掛け合わせです。第一代では優性の野生型だけがあらわれますが、雑種第二代では3:1からはだいぶずれていて、カイ二乗検定で有意になっていません。サンプル数が少ないのだろうと考察しています。
これ以外に、アカパンカビを使った実験、サルモネラ菌を使った実験、ファージを使った実験を行っていますが、省略します。

夏の臨海実習
動物学専修の授業の中では、やはりハイライトは臨海実習で、大きなウエイトを占めていました。3年の夏と冬、4年の夏と冬の合計4回ありました。
最初の臨海実習は6月21日(水)から27日(火)まで、当日、10時までに宿舎集合でした。ちなみに宿舎は、戦国時代にこの地を治めた三浦一族の居城だった新井城本丸跡に建っています。木造の平屋で、教員の泊まる部屋と学生が止まる大部屋が並んであり、庭に面した廊下で食堂へつながっています。食事は賄の人がいて、朝昼晩の三食、食堂で食べます。同じ敷地には別棟で所長官舎と実験所教官の官舎がありました。
宿舎から裏木戸を通って馬の背と呼ぶ細い道に出て、油壷湾を左に見ながら切通しを下って抜けると、右手に付属の水族館があり、入口左側に半円形のプールがあり大きなウミガメが泳いでいました。そのすぐ先に三崎臨海実験所(Misaki Marine Biological Station)への入り口があります。実験所の建物の裏手はすぐに油壷湾入り口で、実験所の敷地から桟橋が伸びています。油壷にあるのにどうして三崎臨海実験所というかというと、最初の臨海実験所は三崎市の町中にあったからです(この辺りの実験所の歴史はここをご覧ください)。

油壷湾入り口側から見た実験所で、小網代湾、相模湾の向こうに富士山。建物一階の左端に丸く見えるのが実習室。写真はタウンニュース横須賀・三浦版に連載された日下部順治さんの記事からお借りしています。

このときの実習は分類学で、ひたすら動物のスケッチをしました。最初に習ったのは、確か和船のこぎ方でした。プランクトンネットを引くためです。毎朝順番に早く起きて和船でこぎ出し、プランクトンネットを引きました。そのほか、磯で採集したり、砂堀りで採集したり、モーター付きの船でドレッジをして海底のスカシカシパンなどを採集したりしました。今でもよく覚えているのは、磯採集の時に後出の重さんが、カメノテを指して、これの学名はミテラミテラというんだよと教えてくれたことです。こうして自分たちで採取したものや、採集人である若い定ちゃんとミノさん、それと嘱託になっていた重さん(出口重次郎さん、三崎の熊さんの弟子)の採集してきたありとあらゆる動物がプール室(と呼ぶ実習室)の机の上に並べられ、黒板に江上先生が学名を書きだします。特に見てほしいもには赤丸をつけて。学生はそれを順番に名前を確認してスケッチしていくのです。このとき、珍しいものとしてミサキギボシムシが採れたと言って話題になったことを憶えています。このミサキギボシムシ、残念ながら尾部が少し欠けていましたが。

ミサキギボシムシ

一眼レフカメラ用のベローズを購入して、アオウミウシとシロウミウシを撮影しています。スケッチはたくさんありますが、まずは写真に対応したアオウミウシとシロウミウシのスケッチを載せてみます。

スケッチはA5判のケント紙にHB、2H、4Hの鉛筆と、色鉛筆も使って描いたものですが、それを適当な大きさに切り出して、2冊のアルバムに貼り付け、「無脊椎動物の分類 1)2)」として系統的に配列しています。その中から適当に選んでギャラリーに載せておきます。クリックして拡大してご覧ください。1)はカイメンから軟体動物まです。

2)は節足動物から脊索動物まで。

動物学専修の仲間と妙高へ
7月4日から7日の日程で妙高高原いもり池のほとりにあった東大池之平寮に泊まって、付近を探索しました。参加者5人、佐藤寅ちゃんはこういうのは嫌いで(多分)参加していません。妙高山へ登り、野尻湖の周りを歩き、一茶記念館を訪ねています。特に目的があって行ったのではなかったようですが、どういうきっかけで行くことになったのかは全く憶えていません。

池之平寮(卒業アルバムより)

3年後期の講義と実習
実習のノートはあったのですが講義のノートが見つからないので、講義の内容をはっきりとは憶えていないのですが、動物発生学、動物一般生理学があったように思います。発生学は当時臨海実験所にいた平本幸男先生に、生理学は高橋景一先生に一部は習った気がします。高橋先生のキャッチマッスルの話を憶えています。

実習は前半10月24日からが組織学で、後半1月16日からが発生学でした。
組織学実習では、切片作りをイロハから教わりました。組織片のブアン液による固定、アルコール系列による脱水、キシレンによる透徹、パラフィンの浸透、パラフィンへ包埋して切片作成用のパラフィンブロックを作り、これを回転式ミクロトームに装着して切片を作成する過程です。実際にマウス(C3H♀)から、肝臓、肺、副腎と、その他の器官を採取して、パラフィン包埋から薄切の過程をマスターしました。ミクロトームで薄切した薄切リボンを筆で取り、スライドグラスに張り付け、脱パラしてアルコール系列を通し、ヘマトキシリンとエオシンで染色してカバーグラスで封入し、組織を顕微鏡で観察しました。たくさんのスケッチが残っていました。

組織を採取したマウス C3H♀
マウスの肺 x150
マウスの副腎皮質 x200
マウスの小腸 x400
マウス卵巣の卵胞拡大図 x600
マウス精巣の精細管断面拡大図 x600

このほか、実験ノートの記述によると、生体染色や氷結切片法を行っているようです。クリオスタットは古い型のものが一台、廊下に置いてあった気がします。

冬の臨海実習
3年の冬の臨海実習は1968年1月7日から13日まででした。夜になると様々なクシクラゲ類が桟橋の明かりにひかれて岸壁に近づいてくるので、柄杓を使って透明な櫛版がキラキラ光るクラゲを採集しました。クシクラゲや、カブトクラゲ、アンドンクラゲなど多数採集してスケッチしました。プランクトンも採集してスケッチしました。下のクラゲのスケッチ、夏に採集したものも混ざっているかもしれません。

クラゲのスケッチと並行して、バフンウニとムラサキイガイ(Mytilus edulis)の初期発生を観察して、スケッチしました。このときのスケッチを後でまとめて、布で表装した手製の表紙をつけて、製本しています。この頃、装丁、製本に興味があったのです。下の写真の大型の方が発生のスケッチ集で、小さい方は少し後で装丁を施した岩波文庫の「宮沢賢治詩集」(谷川徹三編)で、こちらは皮装です。見返しを加えて、赤い花切れも付けてあります(右側の写真の下の方に小さく見える)。

脱線しましたが、バフンウニの初期発生のスケッチです。

未受精卵(左上)と受精の過程
第一卵割
第二卵割から、桑実胚、胞胚を経て孵化まで
陥入、原腸胚、変態してプルテウス幼生まで

次にムラサキイガイの発生です。ムラサキイガイの卵割様式は、バフンウニが全割で等割であるのに対して、全割ですが不等割で、らせん卵割と呼ばれる卵割をします。

未受精卵(左上)と受精、第一卵割の様子
第二卵割

4細胞期からトロコフォア幼生まで

ベリジャー幼生まで

この実習中に、次の五月祭のための実験をしています。フナムシの体色変化に関するものです。級友の榎並淳平さんから、御父君である榎並仁さんの著書「色を変える動物たち-名探偵シャイロック・トームズ氏の生物学研究日誌から-」を借りました。名探偵トーマス氏を狂言回しにして、色を変える動物たちについて、そのメカニズムを解説していくというものでした。川の中をのぞいていたトームス氏が、川の中を泳いでいる魚の群れが、川底の背景によって見えたり見えなかったりする、というところから始まったような記憶があります。挿絵も著者自身のもので、おもしろい本でした。

その榎並仁さんが、三井海洋生物学研究所(下田にあった。現在は須崎御用邸)に在籍していた時に行ったフナムシの体色変化の研究の原著論文を読みました。臨海実験所の周りには、桟橋の壁だとか用具倉庫の裏の切り立った岩の壁だとかに、フナムシがうようよいて、実験材料には事欠かないようでした。そこでフナムシを捕まえて、実体顕微鏡で体の周囲の部分を観察すると、色素細胞がたくさん見えます。背景を白い色にすると、色素細胞中の黒い顆粒が凝集して体色が明るくなります。観察はいたって容易でした。体色の日内変動とか、背景を黒から白に変えたときの色素細胞の変化など、基礎的なことをやり、最後は頭部の抽出物の注射などの実験を行うために、この後も実験所に何回か通って実験を実施し、五月祭の展示に向けて、かなり力を入れたことを憶えています。

Wikipediaからお借りしています

3年後期実習の後半
実習の後半は発生学実習で、冬の臨海実習のすぐ後から始まりました。冬の臨海実習では無脊椎動物の発生を観察しましたが、本郷では脊椎動物であるカエルの発生、それとヒキガエルを使って心臓の発生をたくさん切片を作って観察しています。そのうちの何枚かを。

カエルのGastrulaの断面
ヒキガエルの心臓の発生

ニワトリ胚の発生を、Borax Carmineを使った生体染色で追っています。このプレパラート、バルサムが黄色くなってしまっていますが、ちゃんと保存されていました。

それとイモリの足の再生、切断後10日と40日後の再生部を観察しています。再生には時間がかかるので、切断は1月6日にしたとノートにありました。

また、嚢胚後期の胚の細胞をバラバラにして、よく洗い、寒天培地上でdeconstitutionの実験を行っています。さらに、ヒキガエルを使ってオーガナイザーによる二次胚の誘導実験もしています。原口上唇部を切り出し、ガラス棒に毛髪をつけたもので拾って、別の胚に挿入するのです。日記には珍しく実験のことが書いてあり、3月7日と8日にこの実験をおこない、細かい仕事なので疲れた、とありました。

クラブ活動
生研の活動は駒場の2年間だけですが、この年の7月19日から22日の苗場合宿に先輩として参加しています。日記には苗場山に登る途中でコサメビタキの巣を見つけて、夢中で木に登って撮った、とあります。そのほかホシガラス、ウソ。それがこれらの写真です。

また生物同好会の活動にも参加しています。1968年3月10日の時の写真で、上野の不忍の池へ探鳥会、その後、湯島天神へ行ったときのもののようです。

カオスの出版(大げさかな?)
駒場時代(二)に書きましたが、哲学研究会(哲研)というたいそうな名前をつけて、三人(時に四人)で集まって議論したりしてました。何かちゃんと残そうということで(多分)、これまでの書き溜めていた原稿を集めて、印刷をすることになりました。本郷の正門を入って銀杏並木を安田講堂に向かって進んだ右側にある法文2号館の地下にあった東京大学出版会教材部に印刷を頼みました(当時は経済学部も入っていたと思うので、建物の名称は法文経2号館だったと思います)。建物を三四郎池側に沿って安田講堂に向かって少し歩いたところに、地下1階に通じる入口があり、そこに入るとすぐのところに教材部がありました。
手帳によると、5月4日に打合せをして見積もりをもらっています。原稿用紙70枚、製本、表紙作成を含めて、13,500円の見積もりでした。このときはまだ表紙原稿がなかったので、表紙の原稿と目次を作り、6日に入稿しました。22行X28字、2段組、28ページの冊子100部ができあがったのが、5月31日でした。代金は見積もりより少し安くなって、12,700円でした。領収書の宛先が「哲学研究会」となっていますね。

目次にあるように、筆者は「恐山から」という短編を寄稿しています。この頃の日記やノートなどには、山へ行くことをテーマとした短文が散見され、電車で出会った人が谷川岳で転落死したのかどうかを確かめるために、河原で荼毘に付されるのを見に行き、谷川岳の遭難現場へ足を向ける、といった文章や、赤岳ヘ油絵の道具と萩原朔太郎の詩集を持って出かけると言った文章が残っています。「恐山から」はその系譜を引いているような気がします。書きだした原稿用紙に、さらに推敲するようにという書き込みがあるバージョンが残っています。掲載されているものをPDFにしたものはここにあります。よければ読んでみてください。
2号は表紙のタイトルの左側の縦棒を2本に、以下順次増やすと考えていたと記憶しているので、定期的に発行しようと思っていたのだろうと思いますが、単発で終わりました。

プライベートライフ
雑記並日記(1967.4.6~8.6)と書かれたルーズリーフを綴じたものと、日記(1967.8.8~68.9)と書かれたノートが一緒に屋根裏部屋の段ボールの箱の中にありました。これほど長い間、克明に日記をつけたことは、これ以前もこれ以降もありません。当時のプライベートライフがありありとわかる内容です。今、これを読み返してみると、学部の2年間はプライベートライフにおいては疾風怒濤の時だったことがわかります。かなりの部分はずっと記憶の底に沈めてしまい、これまで思い起こすことはなかったのですが、今回、これを書くにあたって日記を発見して読んで、いろいろなことが蘇ってきて、不思議な感懐と動揺を感じています。

駒場時代(二)にあるように、Pollyの存在が心の中で次第に大きくなっていきました。日記を書き始めたのが4月6日ですが、そのきっかけも、このことと関係があります。6日の項に、4日のことを念頭に「やはり何か書かなければいられない気持ちでいっぱいだ。」で始まり、「彼女があれほど強い人間とは思わなかった。僕はうかつだったといえる。彼女の考えが正しいことは間違いないし、彼女は自分にとって最善の道を歩んでいくだろう。僕はそれを横から見ていて、又できることなら一緒に歩いてゆきたい思う。僕は彼女を見直したし、改めて好きになった。」いう記述があるのです。
彼女は音楽大学へ通っていて、このころアルバイトとして上野にある高級喫茶店「古城」で夜にピアノ演奏をしていました。1963年創業の「古城」は、内装が豪華な高級喫茶店で、今でも同じ場所にあります。写真は現在のものですが、ビルの壁に掲げられた大きな看板、小さな入り口を入って階段を降りると途中にあるステンドグラス、店内に入るとステンドグラスに囲まれた室内などは当時のままのようです。ただしピアノ演奏は一時期、電子オルガン演奏に代わり、今はもうそれもやらなくなったそうです。この頃かなり頻繁に、Pollyがアルバイトで演奏するのを見守り、終わった後は、いろいろと話しながら、家まで送って行きました。 

右下の写真の左手の中ほどにあるエレクトーンの位置に、当時はグランドピアノが置かれていました。ピアノを弾くPollyをラフスケッチしたものが、上に述べた雑記帳・日記の中に残っていました。

この間にいろいろとあるのですが、複雑なのでウンと端折って先へ。16日に渋谷で会ってボタンという喫茶店に入り、ここで好きだと言いました。彼女の反応はあいまいなものでした。翌日の日付で日記に次のような詩が書かれていました。

    無題
 時々突き刺さる時計の音に
 俺はドキリとふるえるのだ
 何がにがそんなに恐ろしい
 他に音とてしないこの深夜に
 一人情炎の炎を燃やし
 青々と燃え
 過去の痛手を流そうとて
 虚しく悩むこの胸の
 心臓のコ動におどろくのだ

 俺の胸にあるものは しかし過去でもなんでもない
 青々と燃える生命の炎と
 その奥にひそむ
 さびしいさびしい恋情なのだ

 その炎はもう俺の手の届かない
 奥深いところで
 秘かに秘かに燃えている

 燃え上れ燃え上れ
 そして燃え尽くせ
 燃え上れ

この後、21日にも古城へ行き、帰りに話しながら家まで送り、手紙を渡しています。また23日には、彼女の友達と3人で新宿へゴーゴーを踊りに行っています。激しくゴーゴーを踊る彼女を感嘆して見つめていました。
24日の日付で、かなり長い、少し哲学的な文章を書いたページがルーズリーフが綴じ込んでありました。青年時代にどんな考えだったかが垣間見えるので、長いのですが書き留めておきます。意味がよく汲み取れないところもありますが、原文のまま載せます。

「状況について」
 我々をとりまく状況は即自存在的に存在するのではない。事物が存在するのは、確かに即自存在的であるが、われわれの意識にのぼらない限り、我々の構成的要因とはなりえない。しかし、我々をとりまく状況は、最我々に密接にとりかこんでいる。ある意味では即自的存在かもしれない。否、そうできるのかもしれない。意識的にはしかし、その場合も我々をとりまく状況は、その意識に鋭くせまってくる。
 ではいったいその状況とはなんだろうか。我々は一個の実存として存在しているのではあるが、それが存在するのは一つの集団の中である。我々が属していると意識しようがしまいが、地球の上の人間集団の一員であることを止めることは今のところできない。しかも我々が生み出されてくるところは、更に細かく一個の国家内であり、さらに細かい社会集団である家族内にである。この決められた状況は我々は選ぶことはできない。ある意味で当初それは超越的であり高圧的である。我々が自己を回復する手段としてとりうる手立ては拒否の態度であろう。我々は拒否をすることによって、その状況を認識することができる。

「城について」(4月21日の電車の中での話より)
 我々がその心のなかに城を持っているのは事実である。
 彼女はいう。かって城をつくったが、それが壊されてしまったと。その後はもっと堅固なものを築いた。彼女のかたくなな心は、その壊された城に秘密があるのかもしれない。しかしともかく我々が築いている城が、破壊されてしまうことがあるのは事実である。もっとも、その存在の根本となるべきもの、実存の城といったものは破壊されないかもしれない。破壊されてしまう城は、更に大きく拡げたものであり、我々がよっているところの思想であり、ポーズであり、パターンであり、概念である。我々が個体であることをやめない限り、最後にはしかし残る城があるような気がする。それは小さな城であるが、ずっしりとしたもので、小さな旗にはこう書いてある。”わたくし”と。しかしそれ以外には、愛をもって導きいれるのに障害となるべきやぐらも堀もないのではないだろうか。それを大きく拡げて営々と築き上げてゆくのは危険なのではないか。我々が見たとき、その城は壮観にして美麗にみえるかもしれない。しかし、その陰で泣いたのは多くの無残な努力であり、自由を犠牲にした涙であったろう。
結局、しかし当人にとってはその方が楽だったかもしれないが、我々がささやかな演技をしていることは、我々に課せられた自由の重荷を軽くする、一つの手段ではあるわけだ。そこによっていること、一つの概念規定を設けてしまうこと、そういった指導原理を掲げることは、一つの慰安でもある。その最たるものはいわゆる”神”であり、宗教であろう。もちろんここでいう神とは、救いの神であり、うやまわれる神である。原初的なその姿を言っているのではない。結局、我々は自分の神を持つべきであり、神とは我々の外部世界に建てられた対象たるものになると、それは堕落であろう。

「一つの反省と非難」
 現在、僕の周りの状況は自然科学的であり、そのような教育を受けてきた。科学というものが目指すところはそれでは何かというと、一つの相対真理である。そこには我々自身の問題には立ち入れない科学があたかも存在というものを規定できるように見えて、その実、究極においては科学の法則では証明しつくされないような気がする。それでは存在とは何か。我々自身のうちにある存在の問題として、とりあつかうものを求めねばなるまい。現在、僕がうえているのはそういったところであり、そういったものが現在の教育課程において異端者扱いにされているような気がする。もちろん明確な回答が必要なのではない。ただ、自然科学というものがあたかも全能のような顔をして我々の生活に押し寄せているのが(教育においても)問題なのである。(欄外に:科学はすべての法則を捨てようとはしない。常に包括的なもので矛盾なく包みこもうとする。科学においてももっとかたくなな態度が必要なのではないか。)

そして、4月27日の日記には次のような書き込みがありました。「彼女よりの手紙を落手、何か横面をひっぱたかれたように、おこっている先生がどうして怒っているのかわからない小学生のように思った。」
独り相撲のようなものだった恋愛(というか憧れのようなものだったのかもしれませんが)は、こうして終わりを告げました。終わった後も、彼女とはよい友達として時折、会っていました。少し先のことになりますが、後楽園遊園地に行ったり、新宿のディスコに行ったりしているのです。

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心に空白ができたそんな折(だからこそかも)、4月30日に久保田が企画し、横井、筆者と久保田の友達M. N.さんとその友達2人の女性陣3人、計6人で、扇山にハイキングに行きました。扇山は山梨県大月市にあり、中央線高尾駅から中央本線でさらに先に行き、四方津駅あるいは鳥沢駅で下車して登ります。日記には四方津下車と書いて、後からカッコでくくって鳥沢と書き足しているので、行きは四方津駅で降り、帰りは鳥沢駅からだったのでしょう。
しかしながら、どのようなコースでをたどったのか、扇山に頂上にたどり着いたのかなど、全く憶えていません。ただ、帰り路でコースを間違えたのか、思ったところに着かずに地図を見てあれこれ悩んだ様子が写っているものを含めて、写真が残っています。また、日記には、次のように書かれていました。
「5月3日(水)
四月は様々なことがあり、僕の気持ちの上に大きな印を残して過ぎていった。
四月三十日のことを書こう。(中略)楽しかった。僕が自由な僕を取り戻して、自由にふるまい喋り、歩き食べ飲んだ。道は厳しかった。特に下りの道のホコリと急なことにはまいった。いや僕なんかより女性たちの方がもっともっとまいったろう。M. I.さんという子は僕と気があって、マンガのことやその他いろいろ話した。帰りにダンパーへ行くことを誘った。喜んでいるようだった。僕は何か彼女に心ひかれているようなのだ。」
後になって(7月6日)この日のことをかなり細かく、書き加えています。ダンパーというのは赤坂プリンスホテルで開かれるダンスパーティーのことで、帰りのバスの中でこの券をM. N.さんがM. I.さんに売りつけようとしていたのです。僕はそれを買って彼女を誘いたいと思いました。で、買いましたが、なかなか言い出せずにいて、高尾で快速に乗り換える時に、彼女に近寄って誘いました。「多分行けると思うんだ」「多分じゃいや」「じゃあ絶対」こうして約束ができたのです。電車では彼女と隣り合って座り、神についての考え方など、またいろいろな話をしました。

5月13日に、M. I.さんと約束の赤プリでのダンスパーティー、ドキドキしながら渋谷で待ち合わせ。彼女は「髪をこの前よりいくらか短くつめて、水色の、あれは何というのか、ドレスと黒い小さな靴、セーターを手に小さなバッグをもって、水色のドレスの後ろにはボーがついていて、そこから下が割れていて、下には濃紺の部分が見える。かわいらしい、それでいて軽快な服装」で少し遅れて現れました。地下鉄で赤坂見附に行き、赤プリへ。会場は5階のホールでした。30分遅くホールに着いたのですが誰も踊っていません。やがてみんなが踊り始めたのをみて、こちらもジルバを踊りました。付け焼刃的な知識でリードしたのですが、彼女はうまかった。ゴーゴーも踊りました。少し踊っては休み、コーラを飲み、話が弾みました。少し後から現れた2人を加えて4人で8時過ぎに会場を後にして、赤坂見附のお店でサンドイッチとブルーハワイ、その席でも先日の続きの議論をしています。10時半、だいぶ遅くなり、彼女を家まで送っていきました。着いたのが11時40分。これは少し遅くなったと反省。ともかく楽しかった。とあります。

すぐ後の日記には次のような記述が。「一目ぼれというのがあるのだろうと認めることになる。僕の心の間げきをぬうように埋めるように、僕の心の中へ彼女は入り込んできた。ともかく何の疑いも何の迷いも何の懸念も何の打算もなく、ただ好きだという、それが恋なのだろうか。叫びたい好きだと。」

5月20日には、五月祭に誘って東大へ、また28日にはメソポタミア展にも行っています。

下の詩らしきものは、授業のノートとして使っているルーズリーフに書かれたものを日記に綴じ込んだものです。授業中のいたずら書きとあります。日付は5月26、27日。恋すると詩人になるのですね。

    無題
 光の中に何を見たのか?
 子供たちの笑い声と
 池の周りをかけまわる
 田んぼの中を走りまわる
 子供たちの笑い声と
 緑(あお)い樹々の新緑の美しさ
 その奥で静かにたたずむ
 なつかしい人の姿を

    無題
 こんなに遠くへ来てしまったと
 港の見える丘の上で
 こんなに遠くへ来てしまったと
 高い木立の陰に立って
 こんなに遠くへ来てしまったと
 静かに口の中で繰り返すとき
 遠いタグボートの音の中に
 愛してる愛してるという声が
 聞こえてくるような気がするのです

この後も、月に2回ないし3回のペースで会っています。6月11日には彼女の愛犬ジョニーのお墓参りで多磨霊園に隣接する動物墓地のあるお寺へ、17日には明治神宮へ、混んでいたので内苑には入りませんでした。臨海実習の時には、別のノートに毎日手紙を書いていて(投函したわけではない)、それを後で日記に綴じ込んでいます。
7月には臨海実習から帰って久しぶりに1日に会い、駒場の日本民芸館と東急文化会館プラネタリウムへ、10日は東京商工会議所へ彼女のタイピング試験の結果を見に行き(もちろん優秀な成績で合格)、日比谷公園、千鳥ヶ淵へ、16日には後楽園遊園地へ、行っています。
8月15日は上野でルノアール展へ、その帰りに家まで送って行って、そこでお父さんに会いました。22日に有楽座で「ロッシュホールの恋人たち」を見ています。

上に書いた臨海実習中の仮想手紙の一枚には次のように書かれています。
「6月22日(木) あなたに会えない日が続くとわかると、ますます会いたさがつのるのです。だからこうして毎日あなたに手紙を書きつづりたいと思います。その日のことや考えたことなどを。けれども昨日今日と採集観察が続くと、考える時間、ぼんやりと過ごす時間がなくなっていることに気付くのです。こういう日々が悪いというのではありません。何もせずにただぼんやりと過ごす時間が非常に大切だということ、いやむしろ、大切にしたいと思うのです。たとえば何か重要なことがどこにでもころがっていると思います。けれどやはりこういう環境に置かれてしまうと考える時間がなくともそれほど痛みを感じなくなるだろうということ、人間の適応の強さということです。
いやむしろ、巨大な日常性の前では、人間はいかなる抵抗もむなしいのではないかという、つまらないいやな考えに追いかけられることです。「オルフェとユーリディス」というアヌイの戯曲では、純粋な愛とそれを許さない日常性ということでした。彼は悲観的に日常性に押し潰されるよりは死を選ぶ愛を描いています。僕は夢想家だから日常性にも屈服しない、いやむしろ日常性のなかでこそ増々その純粋性を輝かせる愛というものがあるだろうと思うのです。愛というものが単なる動物的なセツナ的なふれあいという役割以上であると(檀一雄)いう以上、日常性のなかにこそ、ほんとうに守り育ててゆく愛があるのだろうと思うのです。
僕はあなたを知った時から常に、この愛の認識と成長ということを考えてきました(これからも)。ある意味では愛とは美しい名のもとにある虚影というよりは努力による建設とも取れるのです。もうそろそろ遅くなってきました。あしたの朝も早くおきて仕事があります。この続きは気がついたら書きおくります。
愛する者の孤独な魂をあたたかく包みたまえ。  さようなら」

4通の仮想手紙の前には、「いたずら書き用」と書いたページが綴じ込まれていて、現実だか妄想だか願望だかわからないような文章があります。例えば、こんな文章。

「多磨霊園は広く静かな落ち着いた、墓地というよりむしろ公園といった風な感じだった。道が放射状に走り、樹木が植わっている。僕は楓の実を取って、竹トンボのようにまわしながら落とした。けれど、まだ熟していないのだろう、少しも回ってくれなかった。

栗の木は白い花を咲かせ、カキはもう小さな実がちょこんとなっていた。そこは小さな寺で、入口の左側に受付があり、その隣に休憩室、次に花と線香を売っていた。池があり、その側に観音像、猫を抱えた、が立っていた。墓地には驚くほど多くの墓が立っており、新しい墓もどんどん建っているようだった。ジョニーの墓は、真ん中の道をかなり行ったところに立っていた。隣の墓との間かくは狭く、いかにも混雑しているという風だった。彼女は買ってきた花をかざると、木の墓に水をかけた。「なにもいわなくていいの」「ええ、心の中で言ったから」 帰り際、「ジョニーさようなら又くるからね」といった。

明りを消してスタンドだけで机に向かって坐っていると、ただスタンドのまわり少しだけが浮きあがって、地上のもろもろの引力から切り離されて、無限の空間に漂い初めるような気がする。つなぎとめる何物(except me)もなく、空想の軽い翼をつけたこの空間は美しく、果てしない彼方へ漂い始める。

恋をする人は夢想家になる

明治神宮は花しょうぶでいっぱいだった。池の端を歩きながら僕たちは青や黄や紫の花々を、そして僕たち自身を美しいと思った。日焼けした彼女の顔も手も足も美しい。「僕は恥ずかしがり屋でウマく言えないけれど、君がとっても好きだよ」僕は左手にカバンを持って、彼女はかわいい制服を着て片手にテニスの道具を持って、僕達は手をつないで何ともなしに走り出した。

恋とは犬の遠ぼえすら韻律をもって響かせるものである。」

もっといろいろ書いたものがあるのですが、長くなるので省略します。さて、8月に映画を観た後、少したって手紙で「愛している」と書き送りました。日記には、「僕はせっかちだと思う。でも仕方なかったんだ。重苦しくてたまらなかったんだ。」とあります。なんとなくぎくしゃくしていたんでしょうか。その後、9月に入って8日に電話をするとだしぬけに「明後日1時ユーハイムで」と言われました。緊張した口ぶりで話があるということでした。10日に会うと、僕とはもう会わないと宣告されました。こうして彼女との関係は終わりを告げたのです。またも独り相撲の、頭の中で考えた恋だったのでしょうか。

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再び心に空白ができたときに、またも紹介されて、最初は新宿駅でブラインドデートをしました。9月22日のことです。電話をかけて今日でもいいというので、新宿駅中央口エレベーター前で待ち合わせました。お互い顔を知らないわけなので、服装や背格好を知らせあいました。「彼女は確か紺のツーピース(あるいはワンピース)、黒いカーディガン、背はかなり高い、そんな風だった。僕はチャコールグレーのセーターに黒いズボン、黒いカバンを持って茶色の本を抱えていると言った。何か一種心躍る楽しい出会いだった。決められた場所に行くと、柱のカゲにいた背の高い女の人が僕を認めたようだった。それで近づいてきたので、すぐにそれと解った。二人は互いにアイサツをして並んで歩きだした。どこに行くかは相手に任せた。結局新宿のプリンスの三階へ行った。彼女はよくわかる明るいお譲さんだと思った。僕も極く自然に話ができる。」

これがY. Y.さんとの初めての出会いでした。30日に僕の大学の友達一人(誰だか憶えていない!)と彼女の友達二人の合計5人で新宿プリンスで会いました。広く友達と付き合うためということでした。その帰りにどこかハイキングに行こうと誘って、行くことになりました。彼女は歩くのが好きだそうなので。

12日にも新宿プリンスで会っています。日記には何も書いていないし、憶えてもいないのですが、おそらくどこに行くかを相談したのだと思います。そして15日にいよいよ日の出山にハイキングです。日記から引用します。
「今日はY. Y.さんと金毘羅から日の出山へハイキングに行った。とっても楽しかった。彼女もそういっていたのでよかった。九時に立川駅で待ち合わせていたのだが、僕も三分ぐらい遅れてしまい、「シマッタ」と思った。彼女はなかなか現れない。三十五分にやっと。初めての線に乗ったので、連絡が悪かった由。武蔵五日市へ。そこから歩いて金毘羅公園へ。ところが途中にはそんなものはなくて尾根道になってしまった。ダラダラした道へ出るまでは少し登りがあるが、後はゆるい上り下り。十二時に木陰で食事、二時半にちょっと開けたところで休息と、かなり休んで歩いた。途中歌を唄ったり話したり、僕は女性と一対一でハイキングなんて初めてだったけれど、とても楽しく過ごせた。日の出山から御岳へケーブルで降りて、、、。
彼女はスカートに灰水色のスウエットシャーツに真っ赤なカーディガン。御岳でどこかのおじいさんが彼女に、とって素敵な色だとか、若いものがああいうものを着ていて(?)気持ちがいいだとか、着こなしがいいだとか、娘がいて、、と言っていた。あとで二人で笑ったのだけれど。
あまり照りもせず、かといって雨も降らず、適当な日和だった。それにコースが良かったので誰とも人に会わず(正確には三、四組に食事時に抜かれ、日の出では三組くらいに会った)、ほとんど二人だけの時間と空間を持てたことが良かった。(中略)
日の出へ出る最後の登りのベンチに一人の土地の男の人が腰かけて、大きなカマを研いでいた。彼女は気軽に話しかける。「何をしているのですか」「下草を刈っている」「紅葉きれいですね」「あれはほとんどウルシだね」最後に彼女は「がんばってください」と。」

ここにある写真、どれも素敵ですね(自画自賛)。一昨年の根津美術館での撮影会の経験が生きているのかも。撮影の記録がネガケースにちゃんと書かれています。「アサヒペンタックスS3、タクマ―105mmF2.8、ネオパンSS、1/125、絞り開放、YGフィルター」
20日には、「彼女と会って、ハイキングの写真を見ながら話す。僕は彼女のを一枚もらう。そのあと外苑を散歩した。新宿から歩いて往復。彼女は歩くのが好きだというだけあってタフだ。散歩はいろいろな話したり、、素敵だった。」

彼女はその翌々日のダンスパーティーに誘われているというので、そこに僕もついていきました。彼女はずっと誘ったボーイフレンドと踊っていたので、僕は訳もなくイライラしました。「どうもこれは可笑しい。可笑しいぞ、解っちゃった。これはジェラシーだ。ということは僕は彼女を好きだということだ。はっきりした。」
ここからいろいろと葛藤が生まれ、筆者の心は揺れ動いていきます。煩悶しながら、詩を書いたり、哲学的なことを日記に書いたりしています。

10月26日の日記から
「(前略)現在それらが無いということは、なんと不思議なことなのか。時が運び去ったもの、それは一体何なのか。時間とは何なのか、恐ろしいと思う、この空間とともに。僕は時間と空間のただ一点の交点にだけしか存在していないと鋭く感ずることは恐ろしい。しかもそれが恐ろしい力で僕を彼方へ押し流して行こうとしている。必死に求めるもの、それはこの捉えどころのない時空を凝縮して何かを造りあげたいということ。充実した一点を完成したいとほんとうに思う。そういった「お守り」を持っていないと、ほんとうに怖いと思う。広漠とした時空の中の、ただ一点に居て、振り回され流されてゆくのは怖いのだ。(中略)ボーボワールの「娘時代」「女ざかり」「ある戦後」を読み了える。彼女の生き生きとした生き方に感動した。彼女は素敵だと思う。」

11月19日の日記より
「今は不安だ。全く打ちのめされたようだ。何もかも空虚だ。脱出したい。どこかへ逃れて息をつきたい。劣等感の塊まりだ。あの自信はどこに行ったのか。
太宰治の「津軽」を読んだ。彼の弱々しさ、自分の身の置き所を発見できずにイラついている男が、自分の故郷で発見したもの。
おそらく僕の道は決まってしまったのだろう、大体のところは。これをまっすぐ進んでゆく他はないかもしれない。けれども素朴な信仰の中でではなく、その限界内で自分を見つめながら発展させて行きたいと思うことだ。
彼女は僕の言った言葉(十一月十一日)をどう受け止めただろう。自分の身を賭けることが、こんなに不安を伴う苦痛だったとは。結局のところ僕は今まで、選択などというのをしたことがなかったのかもしれない。

11月29日に新宿プリンスで彼女に会っています。「昨日彼女に会う。素敵だったのだ。太宰治全集第二巻を読んでいて、「ちょっとまってて。ここまで読んじゃうから」「どうぞどうぞ」。読み終えて眼を上げると、彼女は朱色がかった真っ赤なカーディガン、アイボリーにあまり濃くない茶の格子のスカート。僕は近頃「赤」という色にひかれている。素敵な赤だ。口紅は少し濃いピンクにひいて、マニキュアの光る手を口に当てて、あの独特な笑い方。ほんとうに楽しそうな、こぼれ落ちるような笑い方をする。ただ何とはなしに二時間喋る。太ったネズミ、青虫、指輪、三々九度の巫女、にぎやかな家族構成、結婚(友達の)。いろいろ話したようだったし、何も話さなかったようだし。合ハイ、つきあい、彼女の好きな色はコゲ茶、渋い趣味だ。気長につきあうのだ。そうでなければ。もうよそう、赤いカーディガンに幸いあれ。」

少し間が空いて12月23日、この日はプリンスで2時に待ち合わせ。三時半まで待っても来ないので電話をすると、まだクッキーを焼いているという。四時近くに現れた。服装。黒のループ織のオーバーコート、萌黄色のワンピース、胸に白い木造の菊のブローチ。5時に友達と会う約束があるというので一緒に会って、三人でカトレアへ入る。それから9時まで、コーヒー一杯と彼女の焼いてきたクッキーで、ねばることねばること。彼女たち二人の会話、そこに僕が入る。彼女たちに、いや彼女に、愛について語りかける。それが賭けだと、自分の孤独を投げうった賭けだとぶっつけた。

この頃、こんな書き込みも。
「ところで美意識とはいったい何だろうか。ものが美しいとか、色がきれいだとか、メロディーが快いとか。快・不快というものでかたずけらるのか。

黒いループ織のオーバー(襟はない)を着た彼女はとても落ち着いた美しさ。つややかな肌がその深い黒に映えて、紅くさした頬がキラキラと輝く。大きい二重まぶた、明るい澄んだ瞳、黒い髪の毛、こぼれ落ちる笑、深い陰影と華やかな明るさを持った表情、懐かしさを感じさせる眼の動き、黙りこくったときに感じる荘重な美しさ、その二重性、相抗う二極の間に動く美しさ (讃)」

     無題
 山茶花のうす桃色に風が吹き抜け
  オーバーの襟もたてずに道を急ぐ
 何とはなしにおもてへ出たが
  行くあてもなくさまよい歩き
 山茶花のうすもも色にさびしく笑う

 この愛を、溢るばかりのこの愛を
  さびしく笑いただ歩く
 空虚にひびく鐘の音だけが
  人なつかしく胸を燃やし
 青黒き暗闇にさびしく笑う

 馬鹿だよ本当に馬鹿なんだ
 無駄だとわかっているじゃないか
 ヘン愛だなんてしゃらくさい
 まったくもってお笑い草さ
 何を腑抜けたことを言ってるのかね
 そんなものただの虚妄さ、気の迷い
 あんたの勝手に想像する
 理想の世界さ、ありもしない
 そんなに思った通りの甘い世じゃ
 この世はないんでござんすよ
 あんた一人が世迷言ウロウロ悩んでいるだけさ
 馬鹿おっしゃっちゃいけません
  でも山茶花の花うす桃色の小さな花
  風に寂しく揺れるとき
  ちょっとは信じてみたくなります
  人の心にかかる橋
  ほんのささいなことだけれども
  小さな細い愛の橋を         12/25

     無題
 そろそろ俺もお前に狂う
 ムクムクモコモコ でっかい虚構を
 勝手にこしらえ こねあげて
 なんだかフッと寂しくなって
 バカヤローと叫んでみて
 やっぱり俺は愛してるんだと
 またホッと タメイキをつく

 ふゆぞらのした にぶいろの
 あつくくもが たれこめた
 つめたいかぜの ふきぬける
 しはすのさむい まちなかを
 おーばーのえりもたてずに
 みちをいそぎ こつこついそぎ
 かどをまがって おもわずくちに
 きみのなまえが うかぶとき
 にがわらい にがわらい
 ほおをうつ かぜがうつ
 にがわらい にがわらい        12/27

1968年1月1日に、大みそかの夜に紅白歌合戦を見たので、その夜に山本リンダの夢を見た、と書き始めています。その後にいくつも見たらしい夢のうち、2つについて書き記しています。
「ある海辺、海岸から少し離れたところに岩が突き出て島のようになっている。ちょっとゴツゴツした感じで登りにくそうに見える。僕はそこに泳いでいってよじ登る。彼女が後から泳いできて岩にひきあげてあげる。素敵なワンピースの水着。誰だかわからないが岩の上には他に人がいる。ボートが見える。彼女はボートに乗りたいという。僕は「よし」と言って、ボートを借りるために岩から海へ飛びこんだ。
どこか遠くの知らない町らしい。木々の梢が見え、点々と建物が散らばっている。僕はローマの神殿といったような高い枠組みの上にいる。ふと下を見ると彼女が僕より下の横木の上にあぶなげなく上を向いて横たわっている。黒いワンピース(ビロードらしい)を着て、髪をかわいらしく額の上になびかせて、大きな黒い瞳でじっと上の方を見ている。その目がキラキラ光っていた。僕はその横木に降りてゆく。二人腰を降ろして遠くを見る。季節は春らしい。湿った黒い土からはゆらゆらとカスミが上り、温かい陽射しが辺り一面に溢れている。
どうしてこんな夢を見たのか、解答は自分にはわかっているような気がする。」

1月19日、新宿プリンスで会う。お誕生日のプレゼントを渡す。カードも。彼女の田舎の話、スキーの話、少し太った話、前歯が治療のために光っている話、とりとめもないことを話す。27日も。

彼女とのこととは関係ないのですが、1月30日のところに、「太宰治全集を読み了えた。生研の宮元から「津軽」を勧められてから、全集を一気に読み通した。今すぐにはあるにはあるのだが感想みたいなものを書きたくない。そのうち僕のうちで徐々に発酵し始めるだろう。ついでだけどそのほか、梶井基次郎と武田泰淳の「ひかりごけ」を読んだ」、とあります。

     無題
 大きく黄色く上がった月が
 今は中空に縮まって
 冬の寒さにふるえている
 胸に小さな炎を持って
 寝床でふるえていることは
 寂しいことではあるけれど
 それでもそれはやっぱり当然
 あたりまえのことでもあり
 生まれて今まできたなかで
 一つの確かな何かだと
 自分に言って見るのです
 けれども真空の何億年
 銀河の星の端っこに
 きらりと光るちっちゃな星
 それが生き生きとした愛ならば
 この炎のロケットで(まっしぐら)
 飛んでいってもみるでしょう
 それは結局 この僕の
 一つのささやかな感官に
 確かに感じた光であり
 それを信じる信じないは
 人の持つある種の傾向でしょう     2/8

     無題
 余り君のことを考えていたので
 君の名前を忘れてしまった
 だって僕たちはあまりに二人でありながら
 すぐこの身の内に君を感じるので
 名前を呼ぶのがなんだかおかしくもあり
 つまらない冗談とも思えるのだ
 余り君のことを考えていたので
 君の名前を忘れてしまった         2/12

     無題
 どういうわけだかドウダンツツジ
 あいつを僕は好きなんだ
 冬枯れの木々のなかで
 赤くふくらんだ葉芽
 丁度マッチ棒か何かのように
 垣根一杯に燃えている
 やがて白い小さな花が
 可憐にさわやかに咲き下がる        2/14
  *正しくは冬芽で、葉芽と花芽が一緒になっている

2月16日、東京は大雪。プリンスで会う。彼女は、ダンパーで踊っていた人のことを今でも好きだという。突然はしごを外されたような感じで、打ちのめされる。この後も2度ほど会うが、次第に話は日常のことだけになり、かみ合わない感じで、フェードアウトしていくような感覚。

そして3月11日の日記に、「彼女が僕の前から去って行った」とあります。またまた独り相撲だったような恋心は、無残に砕かれてしまったのです。この後はしばらくの間、日記は空白になります。

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このページのプライベートライフを書いている間中、不思議な感覚に囚われていました。頭の中では、森田公一とトップギャランの「青春時代」の次の一節「青春時代が夢なんて、あとからほのぼの思うもの、青春時代の真ん中は、道に迷っているばかり」が駆け巡っていました。忘れていたこと、いいや多分忘却の中に押し込めていたことが思い出され、鮮やかによみがえり、激しく心を揺さぶるのでした。青春時代に遭遇した彼女たちが幸せでありますように、と祈っています。


科学と生物学について考える一生物学者のあれこれ