生い立ちの記16 浪人時代

浪人一年目
こうして浪人生活が始まりました。予備校へは行きませんでした。当時、新宿高校には補修クラスというのがあって、校門を入ってすぐ左側にあった朝暘会館で先生たちが補習をしてくれたのです。受講料は4500円でした。4月11日に納付しています(納付書が残っていました)。どうして補習科を選んだのか、多分、撃沈覚悟だったので、3年分をここでリカバーしようという心構えであったのだと思います。もう一つ、図書館が利用できるからというのも大きな理由でした。3年と浪人の時に、図書館の生物関係の本はあらかた読みました。3年の時の図書館カードがありました。

中でも特に印象に残っているのが、ニコ・ティンバーゲンの「動物のことば」とコンラッド・ローレンツの「ソロモンの指輪」でした。動物行動学をやろうと、ひそかに思いました。

 

 

 

 

 

 


朝暘会館は講堂みたいな建物で、大きな一部屋で舞台の上からの先生の授業を聞いた気がします。でも詳しいことは、あまり記憶にありません。朝暘会館の前で、誰かとキャッチボールばかりしていたような気もします。高校時代の延長のような時が、こうして過ぎていきました。

祖師ヶ谷大蔵の家はワンポイントリリーフだったのか、1963年6月に、相模大野へ引っ越します。最初は小田急線相模大野駅南側のすぐ裏にあったアパートの一室です(相模原市上鶴間8号3695 三洋荘7)。そこからすぐのところにある土地(相模原市上鶴間3604)を購入して家を新築し、12月に転居しました(下の写真の中央やや下にある丸印内、国土地理院1974~78写真より。クリックすると拡大します)。

写真の円の右側に見える筋は深堀川で、駅のずっと北側にある大沼、小沼を源流として、都県境となっている堺川に合流する小河川でしたが、このころには既に大沼も小沼も埋め立てられて宅地となっていて、駅までの川筋もなくなっています(このあたりのことはこことかここに詳しく書かれています)。駅の南側では、まだその面影が残っていて、川筋の両側はそれほど高くはない崖になっています。拙宅の宅地はその中段にあり、狭い路地から階段で降りて玄関にたどり着きます。南側の庭の先にある階段を降りると細い道があり、東に向かうと日本マランツの工場の横に出ました。西に行くと、やや広い通りにぶつかり、角に中華料理店がありました。この道は次に述べる「開かずの踏切」に至ります。現在では、この辺りは相模大野駅南側再開発事業によって大幅に変わり、上に述べた川筋は現在ではハナミズキ通りの駅よりの部分となっていると思います。ちなみに日本マランツのあった場所は、現在はパークスクエア相模大野タワーとなっています。

12月にアパートの狭い部屋から引っ越すのですが、先に書いてしまうと、新築した家はこんな造りだったと記憶しています。

玄関を入ってすぐの右手の洋間が居場所となりました。この部屋は、西側の窓を開けても、北側の窓を開けても、見えるのはブロック塀とブロック塀の壁沿いに下る階段だけで、きわめて日当たりの悪い部屋でした。入口のドアを開けた左側には作り付けの洋服ダンスがありました。西側の窓側に畳敷きの木製のベッドを置いて、北側の窓際に勉強机を置きました。受験まで、もうひと頑張り、と気合を入れました(多分)。

アパートも新しい家も駅からすぐ近くでしたが、当時の相模大野駅は北口に改札口があるのみで、駅の南側には、駅に隣接していた小田急OXストアに沿って左に進み、駅の西側の踏切を渡らないと行けませんでした。その踏切は「開かずの踏切」でした。小田急線の線路は、相模大野駅から分岐して南西へ行く小田原線と南下する江ノ島線に分かれ、さらに車両基地への引き込み線があり、そのすべてが通るところに踏切がありました。そのため、朝夕のラッシュ時には、この踏切はなかなか開きませんでした。

当時の小田急線急行新宿行きは、朝のラッシュ時には大変混雑しました。新原町田と向ヶ丘遊園駅の間、柿生辺りのカーブの所で、前に電車が詰まっているのか一時停車することがよくあり、車両が傾くので乗客は窓枠に手をかけて体を支えるために、窓ガラスが割れる場面がたびたびありました。パリーン、パリーンと割れる音が聞こえてくるのです。こうして新宿高校まで、せっせと通いました。

日時は不明ですが、中学校のクラス会でハイキングがありました。現像を頼んだカメラ店が相模大野公団通りとあるので、1963年6月以降、おそらく秋口だと思います。写真から判断して高麗駅から東吾野駅までのコースだったようです。高麗という地名や物見山という名前をなんとなく記憶しています。最初の方に高麗神社の一の鳥居だと思われる写真があるので、高麗駅から高麗神社を訪ねた後、畑の中を歩き、もしかしたら鎌北湖を訪ね、物見山を経由して東吾野駅というコースだったのでしょうか、よくは憶えていません。中学卒業後丸3年たって、みんな変わっているような、変わっていないような。鈴木康代さん、世ノ一敦子さん、小山弘江さん、木村尚明君、もう一人(ごめん、だれだか分かんない)と筆者が参加者のようです。

上の写真に続いて、家族の写真がありました。都立玉川高校での弟の運動会に応援に行った時のものと、家の近所でキャッチボールをしている写真です。

この年の受験は、さすがに東大一本ではなく、東大以外に横浜市立大学文理学部理学科と埼玉大学文理学部理学科を受験しました。関東地方で自宅から通える範囲にある生物学科のある国公立大学は、このくらいしかなかったのです。自宅から通う以外は、考えていませんでした。

当時は国立大学は一期校と二期校に分かれていて、東大は一期校、埼玉大学は二期校でした。一期校の試験日は3月上旬、二期校のは3月下旬でした。ちなみにこの年は東大は3月3日4日、埼玉大学は3月23日24日でした。ちょうどこの間に、横浜市立大学の試験日がありました。

東大入試の試験会場、どこだったか覚えていないのですが、確か駒場キャンパスの教室だったように記憶しています。しかしながら、東大理Ⅱは再び落ちました。ある程度自信があったので(多分)、確か「サクラチル」の電報を受けたときはショックでした。この前に、横浜市立大学の試験を受けました。横浜市立大学のキャンパスは、京浜急行金沢八景駅を降りて、線路に沿って少し横浜方面に歩き、線路の下をくぐるトンネルを通って右ヘ進んだところにありました。しかしながら試験は、大学の隣にあった高等学校の教室で受験をした気がします。その後で、二期校の埼玉大学を受験しました。横浜市立大学の結果は憶えていませんが、落ちたような気もします。埼玉大学の発表を見に行ったら、生物学専攻(多分)の合格者は10人程度だったと思うのですが、一番末尾に名前がありました。合格したのです。

当時、東大には合格点にどの程度不足しているかを教えてくれるサービスがありました。申し込んだのだと思いますが、その結果が送られてきて判定は「A」でした。Aは、合格最低点から1~20点不足という評定です。再挑戦した場合の合格率の参考値があって、昨年受験でA判定だったものが今年度受験して合格した者は理Ⅱの場合83名中65名で、78.31%の率とありました。

ここから迷いに迷います。埼玉大学の入学手続きをするべきか、もう一年浪人してでも東大にこだわるか。確かこの時だったと思いますが、埼玉大学の発表を見た帰りに、そのままあてどなく電車に乗り、どうしてだったか、またどのような経路でだったか覚えていないのですが、大森海岸のあたりを徘徊しました。歩きながら糀谷という地名を見たのを覚えています。徘徊しているうちに、東京都の水産試験場の木造の古びた建物に行き当たり、中に入って展示物を眺めました。海苔の生活史の説明が壁に貼ってありました。こういう仕事もあるのかと思いました。動物園の飼育係でもいいな、もし来年落ちたら、こんなところに就職するのもありだ、もう一年浪人して東大受験に賭けてみようと思いました。

どうしてこの辺りを徘徊したのかよくはわかりませんが、一つ考えられるのは、森谷家の菩提寺が京浜急行大森町駅から国道を2つわたって東に行った、巌正寺というところにあるので、ふと思いついたためかもしれません。お寺に行く道すがらに、今でも海苔屋さんがたくさんあります。大森から羽田沖までは、このころまでは東京湾のノリの養殖がおこなわれていたのですね。今では埋め立てなどで全くなくなりました。訪れたという水産試験場、今ではそれらしき建物はいろいろ検索したのですがどうしても見つかりませんでした。

浪人二年目
結局、埼玉大学への入学手続きをせずに、もう一年浪人して、再挑戦することに決めて、かなり無理を言って母親に頼み込みました。そして駿台予備校に行くことにしました。

駿台予備校四谷校の午前部綜合大学受験科(前綜)に入りました。東大理系を狙うには、「前理」と言って午前部理科が一番いいのですが、後期の結果が出てから入学申請をしたので、前理の空きが少なく、入学試験を受けて「前綜」に回されたのです。予備校にも入学試験があるのか、と思ったことを思い出します。

午前部綜合は、当時はお茶の水ではなく、四谷にある校舎内に置かれていました(今はもうない)。四ツ谷校舎は、四ツ谷駅を降りて新宿通りを新宿三丁目に向かって進んで、左へ曲がる道を少し行った左側にありました。少し手前にたいやきわかばがあります(今でも昔のままあります)。ここからは、赤坂離宮(現迎賓館)が近く、当時はここにオリンピック組織委員会が置かれていて、東京オリンピック大会の事務をここでしていました。その頃は、その庭に入ることができました。まだ改装されていない赤坂離宮の建物を見ながら園内を徘徊した記憶があります。庭はまだ荒れた状態でしたが噴水(水はもちろん出ていない)もありました。建物を見ながら、あるいは裏庭に面したファサードの1階のテラスを歩きながら、ここで映画を撮れたら面白いな、とシナリオを考えていました。今では下の写真のようにきれいになっています(写真はここからお借りしています)。

現在の赤坂離宮(現迎賓館)本館裏の庭園

駿台に授業で思い出すのは、鈴木長十講師の英語です。黒板に書いた英文の下に、「......」と「~~~~~~」を書いて、「てんてんすればするほど、ますます彼はぶるぶるぶるなのである」というような説明をして、英語の構文について説明をしていました。ここで英語の力はずいぶんついたと思います。ほかの授業はあまり覚えていません。

浪人生活はともかく勉強、勉強です。でもそんな灰色の生活からちょっと外れた話題を書いておきます。このころ、日本アートシアターギルドが設立され、新宿伊勢丹の向かい側に、アートシアター新宿文化が開館しました。ここで映画をずいぶん観ました。多分、最初に観たのはジャン・コクトーが監督をした「オルフェの遺言」だったと思います。調べてみると封切が1962年6月ですから、観たのは高校生の時ですね。コクトーが出演していて、時と場所を越えてさまよう不思議な映画でした。1963年には、羽仁進の「彼女と彼」、イングマル・ベルイマンの「第七の封印」、翌年にはエイゼンシュテインの「イワン雷帝」、監督忘れたけど「かくも長き不在」などを観ています。「第七の封印」は、とても印象的な映画でした。黒死病が蔓延する中、十字軍の遠征帰りの騎士と死神がチェスを打つ場面、最後に死神が騎士をはじめ何人もの人の手を数珠つなぎに引いて、遠くの丘の上を左の方へ歩いていくのを、死から免れた若い旅芸人の夫婦と赤ん坊のうち夫だけがそれが見えて見送り、「また夢を見て」と妻に言われながら、旅を再開させる一連の場面、どのショットも黒白のコントラストの強い画面で強烈な印象を与えます。神についていろいろと会話が交わされますが、結局のところ、救われるのは旅芸人一家のような、artを身に付けたinnnocentな人ということを示したかったのかな、と思いました。

浪人時代は、高校生でもなく大学にも入っていなくて、所属があいまいなほぼ大人という立ち位置です。この頃は当然のこととして女性を意識し、その裸にも興味がありました。
ちょうど道玄坂二丁目の渋谷百軒店の奥にあった渋谷テアトルSSは、この当時ストリップ劇場になっていて、そこへ行ったのです。そこで五月美沙を観ました。彼女は1962年7月が初舞台で、1964年には日劇ミュージックホールに引き抜かれるので、ちょうどこの頃、見たはずです。Ça c’est Parisの曲に乗って何人かの群舞でしたが、スレンダーで顔の小さな彼女は目立っていて、その姿を追ったのを覚えています(下の写真の左、ここからお借りしています)。この写真は日劇ミュージックホール時代のもので、テアトルSSの頃は、この写真よりも、もっと少女ぽい感じでした。
さらに足を延ばして、浅草フランス座も覗きました。幕間にコント55号を名乗る前の萩本欽一が、丈の短い着物に帯を腰高に締めた子供の役で出ていて、たしか坂上二郎に絡むコントをやっていました。幕間ではない肝心のショーの方はよく憶えていません。
また、カメラを肩に新宿二丁目だったか三丁目の裏通りを歩いて、ヌードスタジオに入り、モデルの裸を撮影しました(下の写真の右)。畳に茣蓙を敷いた小さな部屋で、写真スタジオのようにちゃんとした照明装置があるわけでもないのですが、何枚も取りました。何も言わないでもポーズを変えてくれたように思います。どうしてこんな場所を知ったのか覚えていません。カメラ雑誌に広告か紹介が載っていたのかもしれません。あるいは何かの折に偶然、看板か何かを見つけて、思い切って入ったのかもしれません。

ちょっと脱線しましたね。授業と実力テストの繰り返しの浪人生活が続きます。実力テストの結果が毎回、高点順に張り出されますが、そこに名前が載ることはありませんでした。毎回トップに名を連ねる人がいて、すごいなーと思ったものです。こうして年を越し、次の受験の時になります。浪人2年目には、前年度と同じように、東大理Ⅱ、横浜市立大学文理学部理、埼玉大学理工学部(この年度に組織改編されてました)を受験することにしました(東大の受験票がないのは後述)。

 

この時の東大の入試試験は、龍岡門から入って少し先の左手にある薬学部の校舎の2階だったか3階だったかで受けた記憶があります。附属病院に面した廊下の角に、レガッタボートの練習用シート(前後に動く)が置かれていたことだけをはっきりと覚えています。

そんな変なことを覚えているくらいですから、余裕があったのでしょう、この年は念願通り東大に合格しました。したがって、埼玉大学は受験しませんでした。横浜市立大学は、受験したかしなかったか憶えていません。もしかしたら試験日が東大の発表前で、受けたのかもしれません。上に書いた隣の高校で受験したというのはこの年のことかもしれません。いずれにしても、4月6日に東大の入学手続きをしました。受験票は引き換えなので、残っていないのです。
これでようやく大学受験という灰色の期間を脱却できました。浪人2年目は、多くの学友がもう大学生活を始めていることを考え、出遅れていると煩悶したものです。それも終わり、いよいよ大学生です。「生い立ちの記」で書くのは、中学生ぐらいまでのようで、少し引っ張りすぎました。この後については、別の項目を立てたいと思います。なんて名付けようかしら、青雲の記とでも?


科学と生物学について考える一生物学者のあれこれ