青雲の記4 本郷学部時代(二)

こうして1968年4月に4年生になりました。大学院へ進学するとして、どこの講座に属するか、つまり動物学のなかでもどんなテーマで研究するか、学費はどうするか、など個人的な懸案事項がいろいろとありましたが、そんな個人的な問題とは別に、大学内が騒然としてきます。先に東大闘争の一連の流れをまとめおきます

東大闘争
この年の初めに、無給の研修期間を設けたインターン制度の廃止を求めて、医学部で学生がストに入ります。月が替わりストライキ状態の医学部で医局員と学生が衝突する事件が起こり、医学部は学生を処分するのですが、その中にその場にいなかった学生が含まれていることが判明し、学生側は処分撤回を求めました。しかしながらが、医学部教授会はこれに応じなかったため、全学に訴えようと急進的な医学部学生たちは安田講堂を占拠しました。大学執行部はこれを排除するために6月17日に機動隊を導入して学生を排除しました。この機動隊の導入により、これまで守られてきた大学の自治を大学自らが放棄したという認識が広がり、紛争は全学に広がっていきます。7月には急進的な大学院生らによって安田講堂が再び占拠され、東大全学共闘会議が結成され、構内でヘルメット姿の学生がスクラムを組んでデモをする姿を見るようようになります。(写真はいずれも卒業アルバムからコピー)

9月7日医学部付属病院前

4月の新学期の段階では、これらの動きに対して理学部は遠くの出来事としていて、動物学教室では授業や実習は淡々と(だったと思うけど)進んでいきました。が、10月に入り、全学の学生自治会がストを決定するのにあわせて、理学部も学生大会を開きストを決定し、10月2日から授業はストップします。この学生大会には、参加した記憶があります。ストは、1月10日に大学側と急進派を除いた学生連合が秩父宮ラグビー場で確認書を取り交わしたことにより、1月11日に解除されるまで続きます。この間、11月1日に大河内一男総長以下全学部長が辞任し、代わって加藤一郎法学部長が学長代行に就きます。

10月1日理学部学生大会

ゲバ棒を持って暴力的になっていく全共闘に対して反発も生まれ、民青系の学生団体(民青同)が勢力を拡大していき、両者の間で衝突が起こるようになります。11月22日、全共闘の総決起集会が安田講堂前で開かれ、全共闘と民青系団体との間でにらみ合いが起こり、一触即発の状態になります。流血の衝突を回避しようと、赤門と正門の間の道路沿いの石畳に、一般学生(たしか教職員も)が間に割り込むように座り込みを行います。この座り込みにノンポリだった筆者も参加しました。この座り込みで流血の衝突は回避されました。

11月22日流血回避の座り込み

その後、上で述べたように、1月10日に大学側と急進派を除いた学生連合が秩父宮ラグビー場で確認書を取り交わし、ストは解除されていきます。残るは全学バリケード封鎖を唱えて安田講堂をはじめ工学部列品館などの数か所に立てこもる急進派の学生だけになりました。

1月10日秩父宮ラグビー場での団体交渉による確認書取り交わし

加藤一郎学長は1月18日機動隊導入を決定し、19日までの2日間、安田講堂の攻防戦となり、多数の逮捕者が出ます。そのため、入学試験は中止となり、卒業式も中止となりました。

https://plaza.rakuten.co.jp/ccz89170/diary/200910010000/

その結果、我々の卒業年月日は1969年4月23日になります。一人ずつばらばらに、動物学教室の事務室で長田美子さんから筒に入った卒業証書を受け取りました。

4年の講義と実習
とまあ、揺れ動く大学のなかで、動物学専修では少なくとも4月からの講義と実習は通常通り始まりました。
講義は動物生理学、動物生理化学、実験形態学で、それぞれの科目に対応した実習があり、いずれも前期、後期を通しての科目でしたが、上で述べたようにストがあったので、前半は4月から9月末まで、後半は年が明けた1月半ばから4月まででした。また後述するように、夏の臨海実習のある期間と教育実習がある6月後半の2週間、さらに冬の臨海実習のある期間は、本郷での講義と実習はありません。

講義については、あまりよく憶えていません。どこかにノートが残っていると思うのですが、見つかっていません。そんな中で、今でも思い出せるのは、生理化学の山上健次郎先生の講義と、実験形態学の高杉暹先生の講義です。山上先生の講義はとても丁寧な説明をしていたように、また高杉先生の方は、実験例をたくさん挙げて説明していたように記憶しています。

実習の方は実験ノートとレポートが残っていました。
動物生理学実習では、最初の日(4月16日)は、実験の基本的な考え方についてでした。ノートには、まず、実験計画、結果などを論理的に取り扱う、と書かれています。実験は、生体の支持条件を変えて生体の反応を質的・量的に観察・計測して、生体の活動を物理化学的に理解する、とあります。数式で次のように実験について説明しています。

 v=f(x, y, z,,,,,,,)
観察
 v1=f(x1, y1, z1,,,,,,,)
実験
 x1→x2
 v2=f(x2, y1, z1,,,,,,,)  v1→v2はx1→x2 dependentだと推論する
 その他の実験
 vの解析、説明
 unknown factorが関与しての変化が入ってくるかもしれない
 Conrolを使う

生体の取り扱い Normalな状態を保つ
機械(器械)の取り扱い 
 constructする(実験に適ったものを)
 principleを理解し、習熟する

この後、発表の仕方として論文、Report、口頭発表があり、論文の構成について説明しています。意義・目的 即ちIntroduction(Historical)、Material & Method、Result、Discussion、Summary、(Abstract)これを冒頭にもってくるのが多い、Literature(Reference)。ReportはLiteratureを除いたものを論文のヒナ型として順を追って書く。
一般的に主語は使われない、短く簡明に、しかももれなく正確に。figure、tableの表現

うまくまとめてありますね。それでもって、これから行う実験のレポートは、英語で書いて提出することが求められました。これが大変でした。

最初の実験は、除脳したトノサマガエルを使って、反射についての実験でした。よくあるろ紙に酢酸を浸してロ紙片を体側につけると足で払い落そうとするやつです。ここでは、張り付ける位置を変えたり、濃度を変えたりして、反応の程度を観察しています。それによって反射がhomolateralか、contralateralか、unisegmentalか、multisegmentalか、を推測しています。そのほかの反射についても実験しています。

2回目は、やはりトノサマガエルから坐骨神経ー腓腹筋標本をつくり、筋収縮のPhysiologyについての実験でした。pithのやり方を学びました。筋収縮の記録に、初めて回転式キモグラフを使いました。キシロールをアルコールに混ぜて燃やし、発生した煤を記録紙に一様につけ、この記録紙を回転ドラムに巻き付けて記録します。実験が終わるたびに、実習室の外に出て、廊下においてあるバットに満たしたニス液に記録紙を潜らせて記録を保持します。次の図は、標本を作成する手順を書いたノートです。

続いて、英文で書いたこの回のレポートとキモグラフで筋収縮を描いた記録の一部です。伝導速度の算出と、連続した2回の刺激の間隔を変えて収縮を記録し、波形をトレースして切り出して重さを測り、そこから収縮の不応期のグラフを描いています。伝導速度は、12m/secと求めています。

3回目は、同じく坐骨神経ー腓腹筋標本から単一筋繊維標本をつくり、各種の実験、4回目は筋肉から転じて神経の基礎的な実験、5回目は跳躍伝導を実証する有名な実験でした。6回目はナメクジのPharyngeal retractor muscleを使った実験、7回目はザリガニの鋏の筋肉を使った実験でした。このあとは夏の臨海実習につながります。
スト解除後の1月からは、ゾウリムシを使った実験を4つ、続けて行いました。第一講座では木下先生の前の教授であった鎌田武雄教授の時からゾウリムシを実験材料として使っていました。2号館3階の赤門に面した廊下側の窓際には机が並べてあり、ゾウリムシを飼育するガラスの丸い水槽がいくつも置かれていました。その後は、トノサマガエルの心臓を使って心筋の性質(横紋筋と平滑筋の中間)を調べる実験(下図、レポートより)と摘出した心臓を使った実験をしました。

あと、筋繊維にガラス電極を刺して、オシロスコープで活動電位を観察しました。ガラス電極はガラス棒を熱して引き延ばしてつくります。引き延ばす装置があったと思いますが、現在市販されているものとは違って、もっと原始的な装置だったように思います。何回も繰り返して先端が2μmほどのものを作り、3MKClを注入します。こうして活動電位を記録したオシログラムがこれです。静止電位がー80mVで、20mV以上、オーバーシュートしていますね。

この他に、毛細血管の生理学と魚の色素胞の生理学をやりました。3月に駆け足でやったように思います。

動物生理化学実習は4月26日に始まりました。この日は最初の回でもあるので、基本的操作として、器具の洗浄、天秤の取り扱いの説明と、その他一般的注意を受けました。まず手始めにクロム酸混液(二クロム酸カリウム飽和溶液と濃硫酸の混合液)を作りました。この溶液を略してバイクロと呼んでいます。11リットル作り、半分にして一方はガラス円筒に、もう一方はガラス水槽に分けました。円筒の方はピペット類の洗浄のためです。その後、直示天秤の使い方を学び、メスフラスコの検定をやりました。50mLのメスフラスコをバイクロ中に約10分おいて水洗を行い、放置してよく乾かし、直示天秤で重さを測り、次いで目盛線までDWをいれておもさをはかります(18℃)。結果は、風袋31.1045g、50mLの水を加えると81.0184g、その差は49.9139g、したがって20℃の水の補正係数(1.00248)をかけて、このフラスコの容積は50.0377mLと計算しています。また、いくつかの規定溶液を調整しました。
5月2日にはpHメーターの使い方を習い、標準緩衝液(pH=4.0と7.0)を使って二点調整をしました。その後、リン酸の干渉能を調べるために、0.1Mリン酸液に0.1NのNOH液をビュレットで滴下してpHを測定していき、滴定曲線を求めました。また、縦軸をpHの代わりにΔpH/ΔVに変えて、微分滴定曲線を求めました。

これで一応、基礎的なところが終わって、いよいよ本格的な生化学の実験に入ります。
最初は生体物質の定性と定量ということで、5月9日から12日まで連続して、Micro Kjeldahl法によるNの定量の基礎をやった後、カゼインとglycine溶液でNの定量を行いました。5月30日には、Pの比色による定量、Bartlett法による定量を学び、ラット肝臓をホモジナイズしてPの含量を求めています。蒸留装置を使って何やらやったことをはおぼろげに憶えていますが、詳しいことは忘れました。
ラットの肝臓からグリコーゲンの抽出、精製をやりました。青焼きの方法等を書いたマニュアルをもらっているのですが、そこには、1.ネズミの頭をたたいて気絶させ、頸動脈を切り十分に放血する。とあります。その後、肝臓を取り出し、10%TCAでホモジナイズしてエタノールで沈殿を作っているようです。その後、7月2日に糖の呈色反応、何種類かの方法でやりました。さらにグルコースの定量、この後、毎日続けて卵グロブリンの結晶化、タンパク、アミノ酸の呈色反応、ペーパークロマトグラフィー、Folin試薬によるタンパク質の定量などを行っています。ともかくやたらと標準曲線を描いています。下のグラフは、glycineと牛血清アルブミンのものです。

9月からは脂質が対象となり、子牛の小脳をアセトン抽出、エーテル抽出、エタノール抽出、コレステリンの結晶化とノートに書いてありますが、全く憶えていません。
年が明けてストが解除されてから4月3日まで、最初は核酸に関する実習を行っています。レポートを見て、こんな実験を行っていたのだ、と思うほど、ちゃんと憶えていません。最初にRNAとDNAの量を糖の発色によって定量する方法で既知量のサンプルを使って標準曲線を描き、肝臓、脾臓、膵臓中のRNAとDA量を求めています。

こうして求めたRNAとDNA(mg/g-moist tissue)は
   肝臓  11、11  0.87、0.40
   脾臓  46、43  5.3、 7.8
   膵臓  21    2.9      でした。
牛の胸腺からDNAを抽出、精製し、さらにラットの肝臓からRNAを抽出、精製し、RNAをショ糖密度勾配により分画し、さらにギ酸タイプの陰イオン交換樹脂でRNAの塩基の割合を求めています。下に表示された上のグラフの左側2つのピークがrRNAで、右端がtRNAのものですね。

最後の6回は、酵素に関してで、リボヌクレアーゼ、カタラーゼ、トリプトファン・ピロラーゼ、それとLDHのアイソザイム、アルギナーゼを調べ、最後の4月3日に、薄層クロマトグラフィーによる展開をやっていますが詳細は省略します。
盛りだくさんですね。

実験形態学実習は4月22日に始まりました。ラットを使った実験が主で、廊下に金属製のハンギングケージをトレイの上に置いて飼育して使いました。最初の日は、雄と雌のラットの体重を測り、脳下垂体、甲状腺、副腎、生殖腺(精巣と卵巣)、胸腺、腎臓、脾臓、さらに雄では前立腺、貯精嚢、雌では卵巣、子宮を取り出し、重さを測定、絶対重量と100gBW当たりの相対重量を算出しました。小さな(軽い)器官はトーション・バランス(懐かしい!今はもうないですね)を使って測定しています。この後、多分それぞれの人のデータを書き出したのだと思います。そうして、測定値の取り扱い方として平均値と、ばらつきを示す標準偏差、標準誤差の算出し、さらに雄と雌の二群でそれぞれの器官で差があるかどうかをt-検定にかける、その前にばらつきが同じとみなせるかF-検定をする必要があるといった、統計の話がありました。
次の回(5月6日)は雄ラットで脳下垂体除去(hypox)の影響を調べて、この器官のはたらきを見る実験で、メタボリックケージに入れて尿量を測定して、脳下垂体神経葉のバソプレッシンのはたらきを調べました。メタボリックケージが2台しかないので、hypoxした3頭と、していない2頭を、うまく割り振って1週間、データを取りました。確かにhypoxすると尿量が増えました。Hypoxは5月2日に実施しています。たしか藤井式と言って外耳道経由で脳下垂体にアプローチして吸引除去したような気がします。
5月13日には屠殺して精巣や貯精嚢などの重量を測定しています。精巣、貯精嚢、前立腺、副腎、甲状腺、脾臓、胸腺、腎臓の器官重量が減少していました。体重も減少しているので、100gBWにすると甲状腺以降は逆転したり差が小さくなっていましたが、精巣、貯精嚢、前立腺は明らかに減少していました。
生理学や生化学の実験と違って、実験形態学(内分泌学)の実験は結果が出るまで時間がかかります。たいていの場合、上の例のように、説明があって、手術を行い、測定を続ける、最後に屠殺して手術がうまくいっていたかの確認と器官重量の計測という流れになります。
この日に、卵巣除去の説明と膣スミア法で発情周期を調べる方法の説明があり、卵巣除去を実施したのだと思います。さらに子宮を使ったオキシトシンのバイオアッセイの説明を受けています。

実験形態学実習時の写真。卒業アルバムより

5月20日に、卵巣除去した後、エストロジェンとプロジェステロンを注射した2群のラットから摘出した子宮を使って、既知の濃度のオキシトシン製剤で標準曲線を描き、脳下垂体をホモジナイズして器官中のオキシトシン量を標準曲線から求めています(バイオアッセイの方法例)。
5月27日に今度は精巣除去手術を習います。雄と雌の生殖腺を除去した後、エストロジェンとアンドロジェンを注射して、注射をしない対照群と各種標的器官の重さを比較しています。
6月月3日はゴナドトロピンの影響を見るために、3週齢の幼若ラットにPMSとHCGを注射して卵巣の組織像を見て、その影響を調べています。
9月30日は、生殖腺を摘出した雄と雌に、それぞれ別の個体の卵巣を移植し、一定期間後に卵巣を取り出して組織を観察し、卵巣の卵胞の様子から雄と雌のLH分泌のパターンの違いを見ています。
スト解除後の2月10日には、卵巣を除去して、その卵巣(の一部)を同じ個体の脾臓内に移植して、ネガティブフィードバックから解除して(肝臓からの血流の関係でエストロジェンが壊されるため)、その影響を3週間後に見ています。
これ以降、副腎関係、甲状腺関係の実験がありますが、実験ノートからは詳細が読めないので省略します。
最後の方の何回かは、最新の原著論文をEndocrinologyなどから得て、順番に輪読会のようなことをやっています。

こうして今、4年の実習の内容を見てみると、大学院に進んで研究を始めるために必要な技術を習得するという視点が鮮明に出ていると思いますね。

五月祭
5月24日から26日に開催された五月祭に、動物学専修の展示として、それまでかなり熱心に取り組んできたフナムシの実験結果を公開しました。たしかフナムシを採集してきて実体顕微鏡で色素胞を見られるようにしたと思います。このときの実験ノートが見つからないので詳細は不明ですが、背景を白から黒に変えたときの体色変化のグラフ、日内変動、頭部の抽出液を注射した時の体色の変化などをグラフを交えて展示したように記憶しています。記録した写真がないのが残念です。
五月祭のためにプログラムが発行されますが、学生が何部かずつ売る必要があったような気がします。筆者も何人かにパンフレットを買ってもらい、見に来てもらいました。

卒業アルバムより

夏の臨海実習
6月7日から16日までの4年の夏の臨海実習は動物生理学で、海産生物を用いた多彩な実験が組まれていました。ノートとレポートが残っています。項目を書き並べてみると、実験所に着いた7日には各種溶液の調整、8日「マダコとホヤの心臓」、9日「ヤドカリの求殻行動」、10日「シビレエイの発電器官」、10日夜「フジツボの陰影反応」、11日「ムラサキイガイの足糸牽引筋」、12日「イカの巨大軸索」、13日「細胞内部の性質」、14日「細胞表面の性質」、15日「Cothurniaの浸透圧調節」、16日「イソギンチャクの刺胞」。
実験は毎日、行っているので、さすがにレポートは英文ではなく、日本語で書いています。それぞれの回の初めに行われる説明をノートにとっているのですが、かなりきれいに書かれています。先生の図を入れた説明がうまかったのでしょうね。「ムラサキイガイの足糸牽引筋」の回のノートとレポートを示します。

図2 ACとDCによるphasic contractionとtonic contraction
図3 さまざまな強さのACによって生じるDCによるtonicな収縮の弛緩

他の回のノートとレポートもあるのですが、長くなるので省略します。集合日の翌日から9日間で合計10種類の実験をやったことになりますが、毎日が大変だったように記憶しています。

教育実習
筆者にとって大きなイベントは教育実習でした。1968年6月17日(月)から6月29日(土)までの2週間、渋谷区立外苑中学校(現・原宿外苑中学校)で理科の先生として教育実習を行いました。したがって、この間は講義も実習もお休みです。手帳には実施前の6月6日の12:30に、原宿駅南口で待ち合わせの書き込みがあるので、このとき他学部の2人と合計3人で、たしか嘉治元郎先生に引率されて、中学校にあいさつに行きました。

外苑中学校昭和42年度学校要覧より

そのほか、教育実習を行う前にいろいろなことをする必要がありました。5月17日には、中野区南台にある教育学部付属学校でオリエンテーションが一日かけてありました。当日のテキストは、230ページの分厚いものでした。

オリエンテーション実施内容のパンフレットによると、8:20に付属学校体育館に集合、校長あいさつ、諸注意・連絡事項の後、12:20まで総論として、「観察の方法と着眼」「生徒指導について」「学級担任の任務」「図書館について(スライド使用)」があり、その後2コマ、実際に学校の先生が行う授業を参観します。13:00からは「学校保健について」「教育法規とその適用、学習指導の方法等について」で、総論はおしまい。書き込みがかなりあるので、まじめに聞いたみたいです。
午後は14:10~17:00まで、教科別にオリエンテーションがありました。

5月18日には、本郷工学部2号館大講堂で総論の続き、「教育実習の意義および内容」「学習理論の最近の動向」「子供のコミュニケーションの問題」と前日とは違ってもうすこし上の視点からのお話がありました。
その後、教育実習オリエンテーション・テストがありました。3問からなり、第一問は、教員になる気持ちがあるかに「ハイ」「イイエ」で答え、「ハイ」と答えた人にはどのくらいのパーセントで教職に就く可能性があるか、「イイエ」と答えた人は何故免状を取ろうと考えたのか、「ハイ」の人には何故なろうと考えたのかを聞いています。第二問はオリエンテーション第1日に挙げた子供の教育上の問題点二つについて論じなさい、第三問は法規の上から見て義務教育無償の原則および司法教諭の設置はどうなっているかを述べ、教育関係法規とその運用について一般論をまとめよ、でした。うーん、こんな問題どう答えたのでしょう、まったく記憶にありません。

ともあれ、臨海実習が終わった翌日から、教育実習に突入しました。準備のためのノートと清田徳義校長先生に毎日、提出した感想ノートが残っていました。感想ノートにはその日に感じたことを書いて校長先生に提出すると、丁寧な書き込みがついて戻ってきました。そこから引用してみます。

「6月17日(月)今日から一応のカッコ付き「先生」として教育活動に参加することになった。僕は教師にはならないかもしれない。けれども教育というもの、教えるということがどんなに重要なことであるか、特に中老教育がいかに大きな比重を占めているかは十分に認識している。おそらく中等教育の期間に受けた何かが人の道を決定することは十分にあり得ることだ
そこで教育とは何か、教育観といったもの(まとまったものではないが)を少し書いてみる。教育とは方向づけである。人が持っている能力にchannelをつけて、水を流してやることである。それはあくまでも彼の手でなされなければならない。だからchannelをつけて、水を流してやることをそのままやるのではなく、手助けしてやるのだ。生徒各人が選び取る方向を示してやるのである。そして、それは一つの驚きを与えることだと思う。知識それ自身ではなくて、生物なら生物の多様性と統一性、知っていることと解らないこと、そうしたimpactが水を流す起爆剤となる。そして決定的に、そうした作業を行うにあたって影響するのが教師の人間性である。最後に残るものはそれしかありえない。教育というのはそんな意味で一つの危険な冒険なのかもしれない。

一つのpatternがあること、約束事のあることは充分承知しているのだけれど、どうもすぐにカチンときてしまう。

自由なトリを、広い野のトリを捕えてカゴに入れたみたいだから、ほんとうにその通り、精神的にもとても疲れた。」

これに対して、校長先生からは赤インクで長い書き込みがありました。
感想:ルソーが12~13才から15~16才までのうちが一生の中で能力が欲望を凌駕すると言っています。この能力をこの時期に手や頭に蓄える必要があると続くのです。のところの捉え方は素晴らしい。ルソー(天才)の言葉を裏書きしているようなのです。続いて教育観の比喩はおもしろいところです、いいでしょう。
元都教育長の木下一男先生のお言葉です。「日本の教育は型を追ってるように思われる。なる程教育には型がある。これまでの積み重ねの結果として。教育には型がある。しかし型にとらわれない型があろう」ということです。これは俗に言う惰性に陥り動力を出さなくなると、型から脱却することも出来ず進歩も発展も望めず現状維持、いわば退歩に陥ることになりましょう。patternをかまえて更に高いpatternへと進歩が望ましいのではないでしょうか。(捺印)

この日(6月17日)は、指導教諭である鹿野耕次先生が3時限に行う授業を参観しています。2年E組に対する「A-2 電気とイオン」の中の「Ⅰ。正電気と負電気 1.摩擦によって生じる電気」という項目です。授業の進め方を丁寧にノートに取っています。実験による導入、その前に身近な例を取り上げて質問、実験器具の説明、配布して班ごとに実験を行い、結果を発表させる、、。実験はエボナイト棒、ガラス棒を毛皮あるいは絹布でこすって帯電したかどうかを小さな紙片で確認する方法です。エボナイト棒とガラス棒の電気は反発しあう、つまりそれぞれ負電荷と正電荷であることを伝えます。
この後の、2.はく検電器、3.導体と不導体、Ⅱ。イオン、1.電解質と非電解質、2.電気分解とメッキ、3.金属のイオン、4.電池、を翌日から教えることになりました。
さらに5時限目に1年C組に対して行う「Bー2 環境と生物」の中の「Ⅰ、環境と生物との関係 1.植物の発芽と成長の条件」を参観して、同じように授業の進め方をノートを取っています。この単元も、この後の、2. 環境要素と生物、3. 季節と生物、4. 環境に対する生物の適応、Ⅱ。生物どうしのつながり、1.食物によるつながり、2.植物群落、3.動物の集団生活、Ⅲ。生物の分布、をやはり翌日から引き継いで授業を行うことになります。
どちらの授業に対しても、授業計画のノートを作っています。最初の部分だけですが、、(上2枚の染みは、挟んであった吸い取り紙の跡です)。

この日の感想ノートには次のように書かれています。
「6月18日(火)初めての授業、生徒の顔が並んでいる。一つの喜び、一つの驚きである。生徒は生き生きと反応し、あるいは無関心でいる。それは全く頭の中で、机の上で考えたものとは違う。素晴らしいinteractionである。こうしてみると、やはり教師の側で、その生き生きとしたものに流れ込み、溶け込もうとする何かを持っていないと駄目なのだ。そしておそらくはそれは単なる知識ではないだろう。改めてその感を深くした。
実際にはいつまでもアレコレとこんなことを考えているヒマはない。時はたってゆき生徒も動いている。やはり教える知識というものがある。こうして五時間、心身共にクタクタだ。声がかれる。なまやさしいものではない。
昨日鹿野先生の授業を拝見したときのことを思い出す。一つのリズムがある。起承転結がある。終わった時には一つのまとまりがついている。一つのテクニックだし、経験というものだろう。

これに対して、校長先生からの書き込み。
生徒の動きの中にとけこんで居られる姿がうかがわれて愉快です。★「----」の感得はすばらしい、鋭い捉え方です。その通りと言いたい。*   そうです。整理された知識が用意されなければなりません。時によっては彼等から引き付けられることさえあります。このときが生徒と教師との混然一体の姿であろうかと想います。意欲はここからもと言いたいのです。⦅近頃は知育偏重で、子供に意欲が見られないとよく言ったりしますが、知育偏重とはどういうことか、果たしてそうかと問いたいところです。⦆

この翌日、放課後に生徒と遊んだ、生徒の一人一人と接触するのは愉しい、とあり、木曜日になって生徒も最初の構えがなくなってきてザワついてきたとあり、翌日にはイオンのように目に見えないものを理解させるのが難しい、翌週の月曜日には実験を50分の授業の中で実施するのは大変だ、と続きます。もっといろいろと書いてあるのですが端折ります。それぞれに対して校長先生からはコメントが書かれています。
6月25日(火)には、「もう早く実習を終わりたい気持ちでいっぱいである。一つには疲れたこともあるが、もう一つはこれ以上長く続けていると、生徒と離れがたくなってしまうだろうと思うから。ともかく担任の学級の一人一人の生徒がどんなふうに行動し、しゃべり、あばれるかを、つかむことはできたけれど、今度はあまりにもそれが、大きな部分を占めすぎているとも思う。教師という職業は大変だ。僕はこんな考えを持った。それは教師は決して教授の機械ではないので、一人の人間であり、それから湧き出るものが必要だ。それが常に新しくあるためには、3年ぐらい教えたら1年ぐらい丸々休暇となるぐらいのゆとりがあればと思う(もちろん有給で。)(以下略)

これに対して校長先生は「私もそのようなことを思ったり望んだりしたことがあります(後略)。」とありました。

感想ノートの最後の記述は6月28日(金)でした。1ページ半にわたる、かなり長い文章が書かれています。ちょっと長いですけれど、書き写しておきます。
「実際に「」つきの先生ではあるが、中学校に先生として2週間居て、頭のなかで考えていたことがより具体的に身近に起こり、多くの問題を捉えることができたと思う。
中等教育が重要なことは前にも述べたところだが、一つの道がおぼろげながら見えてくる時期ではあるが、少し好き嫌いがはっきりしすぎている気もする。義務教育の段階では、ある程度バランスの取れた理解力とか思考力が必要で、特にあることをよく知っているということはいけないことではないけれど、実は基本的な事はよく理解していないとか、実験操作は身についていないということがあるようだ。そのためにも、各教科間の連絡も必要だろうと思う。
理科について言えば、小学校での学習ともっと連絡をはっきりし、内容をしぼり、基本的な器具の取り扱い方などに重点を置くということも考えられる。実際には実験を通して考えて結論を出してゆくということを指導するのは難しく、1~2割の遅れるものがでるのはやむ応得ないのかもしれない。理科室の設備はよくととのっている。視聴覚全般は観察できなかったが、図書館の設備と蔵書は余りよくない。改善の余地があろう。
なおこれは思いつきだが、都だとか区で簡単な臨海の施設があればどんなに良いだろうと思う。もち論簡単な顕微鏡と採集具ていどでよく、2日間位、適当な指導のもとに海の生物に接する機会を作ることは良いことだと思う。
教師というものは雑務が多すぎると思う。学校経営の中で多くの仕事が教師のかなりの犠牲に支えられていることは事実だと思う。勿論教えるということから考えてすべての面にtouchしてゆく必要はあるだろうが、余りに重い負担になるのも考えものだ。(図書の司書、実験の環境整備助手)
又、一方ではやればキリがないけれども、大してやらなくてもどうにかやってゆける方法もあることで、教師が何かをやる気を失って行ったら、どうしようもない気がする。(そのための環境整備でもあるが)
また、教師の現場の声が上の方に非常に汲み取られにくいような気もする。ともかく単に教師一人だけでなく学校集団のなかで生徒を含めていかによりよく運営して教育効果をあげてゆくかは単に教育関係者だけの問題ではないような気がする。
思いつくまま、気の付くまま、かなり一方的に書いたけれども、実習の機会を与えてくれた学校並びに校長先生に深く感謝するとともに、常に適切な助言と協力を与えてくれた鹿野先生その他の諸先生に感謝するものです。
追記:短い2週間ではあったけれど、生徒の中に僕が何を残してゆけたか、不安とともに興味があるところです。

校長先生の書き込み:いろいろの問題が発見されていました。読むのが楽しみでした。ご苦労様でした。今後のご成長を祈ります。

最終日の6月29日の午前中に、実習生3人がそれぞれ研究授業を公開で行いました。筆者は2時限目に「水と溶液」という単元の中の、「ものの重さ」という項目を、1年C組の生徒に対して行いました。上皿天秤などを使う実験授業です。ノートに学習指導案の下書きがあり、それを清書してチェックを受けています。自分でガリ切をして印刷してますね。

上皿天秤を使って小石の重さを測り、メスシリンダーに水を入れて小石を沈めて水面の上昇から体積を計算し、両者から比重を出すという操作をおこないます。次いで比熱測定用の金属製円筒を使って同じ操作をして金属の比重を出し、教科書の表から金属が何かを当てるのです。指導案にはそのように書いてあるのですが、具体的にどんなふに生徒に指導したのか、憶えていません。その後、反省会が行われました。板書の使い方などが指摘されたようです。

1Aと1Dのクラスで授業の最後に(多分)感想文を書いてもらっていて、全員の分が手元にあります。ざっと見ると、肯定的な評価もありますが、圧倒的に多いのは、「声が小さい、後ろまで聞こえない」「うるさい生徒をもっと怒れ」「黒板の字が小さい、消すのが速すぎる」でした。これではさびしいいので、肯定的なものを一枚だけ。「日ましに授業の仕方がうまくなって来て何を教えようとしているのがわかって来ました。これからもがんばってりっぱなりっぱな先生になって下さい。」こんな感想を読むと、本当にうれしいですね。一回だけ余りにうるさいので怒ったことがあります(6月27日)。その時のことを多分描いた漫画が感想文の中にありました。

感想ノートにも次のように書いてあります。「今日、初めて怒った。授業中余りうるさかったので。自分で「ア、今怒っているな」と感じながら。生徒はさすがにシンとなった。後で他のクラスが入ってきたとき、「今日先生これだぞ」といって指でツノを出す真似をしていた。全くしょうがない子だ。」

実習中に外苑中学校広報部の生徒のインタビューを受けました。その回答が「外苑広報」の記事になって載っています。全員のものが載っていますが、筆者のものだけを記します。
●外苑中の印象は:まずとってもきれい。僕の通学した中学校は木造二階建でしたがここは鉄筋四階建で立派です。よく整理された清潔な感じです。でも校庭がちょっと狭いのが残念ですね。クラブ活動も盛んのようで良いと思います。
●先生になろうと思った動機は?:なると決めたわけではありませんが、中学校の教育が大事だと思うからです。僕は生物専攻ですが生物の嫌いな人って意外と多いのです。中学校の時つまらなかったというのを聞きます。なにか興味あることをみつけるキッカケを与えるのは素晴らしいことだと思います。
●趣味は?:趣味といわれるととてもこまるのです。まず体を動かすのが好きですからスポーツは好きですし、歌うことも大好きです。現在はひまがないのですがカメラに望遠レンズをつけて鳥の写真をとったりしたこともありました。

実習が終わった後、7月1日には再び付属学校で総論の部の「教育実習の諸問題」「教育政策の諸問題」というタイトルの話があり、その後、パネル・ディスカッション、午後は教科別の部でやはりお話がありました。この辺りは全く憶えていません。最後に、教育実習のレポートを7月13日までに提出して、すべてが終わりました。
この実習からは、教えることに関していろいろなことを学びました。あらためて外苑中学校に感謝の念でいっぱいです。日記には次のように記されています。
「(前略)教育問題という途方もなく大きな対社会で僕が自分を捉えたということだろう。実に教師は忙がしく、大変だというのがたった一つの簡単な感想だ。」

もちろん卒業してからですが、理科の教職免許状(中学校教諭一級と高校二級)をもらいました。

大学院入試
9月17日から20日に、大学院入試がありました。講義室で試験を受けた気がします。でも内容は全く憶えていません。ただ、別室で教授陣の前での面接があり、色々と聞かれたのと、最後に瓶に入った標本の名前を聞かれたのは憶えています。2つか3つだったと思うのですが、そのうちの一つ、シャミセンガイは答えられませんでした。

動物学教室の系譜調べ
スト中、小林英司先生の研究生だった松井徳三さんに誘われて、動物学教室の歴史や人物相関図をいろいろと調べました。どうして筆者を誘ったのか憶えていませんが、前に書いたようにこの頃、第三講座の教授は竹脇先生が退官した後、空席になっていて、助教授だった小林先生と講師だった高杉暹先生が、その後釜として競っていたのだと思います。当時、竹脇先生は高杉さんの部屋にしょっちゅう来ていて、研究を継続していました。ラットの性分化の研究だったと思います。ミクロトームで連続切片を着る規則的なシャッシャッという音が、いつも部屋から漏れていました。高杉さんも似たような研究をしていて、そういう意味では後継者という感じでした。小林先生は海外の研究者とのコラボが盛んで、比較的頻繁に海外出張をしていて、余り海外へ目が向いていない教授陣からは評判が芳しくなかったように聞いたことを憶えています。
それはともかく、この歴史調べは、自分自身の大学院の研究室選びにも役に立ちました。動物学教室の講義室には、壁に歴代の教授の写真がかかっていました。初代のEdward S. Morse、二代目のCharles O. Whitman、三代目箕作佳吉、飯島魁、渡瀬庄三郎、谷津直秀教授などです(下の3枚の写真は東京大学大学院理学系研究科所有)。他にもまだいたように思いますが、忘れました。

そのため、これらの人々の名前は知っていましたが、詳しいことは知らなかったので、とても勉強になりました。動物学を選んだのは、もともと動物行動学をやりたかったからだと、前に書いたと思いますが、それらしい研究をやっていたのは第一講座で、木下治夫先生は岡島昭さんとオカヤドカリの求殻行動の論文を発表したところでした。行動の研究だけれども、赤い血じゃないのは嫌だなと思っていました。それで結局、第三講座を選ぶことになります。

後期の授業と実習
後期の授業は上に述べたように、ストのために1月から始まり4月まで続きましたが、既に前半のところにまとめて書いてしまったので、省略しますが、授業以外に、三崎で1969年2月4日から多分9日まで発生生理化学の臨海実習がありました。ウニの発生に伴う呼吸の変化など、以下の4つの実験をやりました。I. Interaction between sea urchin eggs and sperm、II. O2 consumption of sea urchin egg and sperm、III. Succinic dehydrogenase in unfertilized and fertilized eggs、IV. Echinochrome in sea urchi embryo. 
それぞれの回の レポートをまとめて一つにしたものが残っていました。その冒頭に、以下のような前書きがあります。
「すべての章のためのまえがき
 発生という現象は生物現象のうちで極めて興味深いものの一つである。
 すべての生物体はただ一個の卵細胞からはじまって、developmentを続け、adultになる。受精に伴ってきわだった現象は生物体を探ぐる鍵となる。ウニ卵は多量に採取でき、しかも人工的に簡単に受精させることができるので、発生学の分野で多く使われてきた。
 今回は臨海実験所でウニ卵を使って発生に伴う諸現象に一端を実験によって知ることになった。臨海実習は今までも3回あったが、いろいろな点で楽しいものだった。それは常に生命現象という一種の美しいものを僕の眼前に開き、動物学という分野を見直し、新しい視点を開いてくれる端緒となった。
 今回の実習も又、発生学という現象の一部を垣間見せてくれるものであった。以下はそれらの実習のレポートである。」

ツンベルク管を使ったIIIの実験はうまくいきませんでした。うまくいかずにあれこれ悩んだ記憶が残っています。ここでは2回目と4回目の実験のノートとレポートを載せておきます。2回目の実験はWarburg manometerを使って呼吸量を推定する実験です。

4回目の実験は発生に伴うechinochromeの増加を定量する実験で、そのノートとレポートです。

卒業そして大学院へ
こうして、講義と実習をこなして、とにもかくにも4月23日付で卒業しました。

卒業アルバムの顔写真

と同時に、4月12日付で、4月23日付をもって大学院理学系研究科動物学専門課程への入学を許可するという通知書をもらいました。こうして大学院生になれました。先の話ですが、奨学金は、6月になって日本育英会の一般貸与奨学生に採用されました。月額13,000円でした。

プライベートライフ
3年生の終わりにY. Y.さんとのつきあい(これも今考えてみると、頭でっかちな独り相撲だったのかもしれません)が終わりました。そして新しい学期になった1968年の4月から6月には、Pollyと代々木のプールへ何度も行き、確か泳ぎを教えたはずです。そして6月2日には、二人で物見山から鎌北湖へハイキングに行っています。どういういきさつで行くことになったのか憶えていませんが、このときの写真があり、これらの写真、気に入ってます。

1968年6月に外苑中学校で教育実習をしたことは書きましたが、ここで他の大学からやはり教育実習に1週間早く来ていた4人の女子大生と、同じ実習生控室で1週間重なって席を同じくすることになりました。学校へ入ったら原則外出は禁止で、お昼は弁当持参でこの控室で食べることになっていました。そのため、必然的に顔を合わせることになるのです。控室は確か4階の会議室だったと思います。お茶の用意はありました。最終日の6月29日、日本女子大学から来ていた和田かをりさんがなんらかの用事で来校し、控室に残っていた筆者と話しをすることになりました。3月11日を最後にずっと中断していた日記が、ここで再開されます。7月29日の日付の下に、この日を思い出して次のような書き込みがあります。
「最後の日の土曜日、二人になった部屋で、僕達は話していた。人間との出会い、本との出会い、僕はカオスをあげた。それに対する感想文が来て、それから会った。太宰が好きだという。太宰のお墓に行った。」別なところに書いてあった文章によると、6月19日にお昼にお赤飯を食べていて、その理由を聞いたら桜桃忌だということで、話が始まったようです。
こうして7月7日に新宿駅下り線ホーム一番前で待ち合わせて、三鷹の禅林寺にある太宰治の墓参りに行きました。その後、井の頭公園へ歩いていき、公園を回って、さらに新宿へ戻って、モンモランシ―桜という喫茶店というよりスナックといった店で長いこと話したようです。

7月6日に行われた外苑中学校の期末試験の、筆者が作成した問題の採点をすることになっていました。当日の7月6日に行う予定だったのが、何らかの理由で伸びて、採点は7月8日の月曜日になりました。当日は和田さんも来ることになっていることを昨日会ったときに聞いていました。再び外苑中学校の4階の部屋で会い、自分の答案の採点、集計をして、和田さんの集計の手伝いをしました。終わった後、入谷の鬼子母神で開かれている朝顔市に一緒に行くことになりました。
朝顔市の後、浅草方面に歩いていき、浅草の灯が見えたころに言問団子の話が出て、食べに行こうとまっすぐ墨田川まで行き言問橋を渡り左に折れて川沿いに進みました。もう開いてないかと思ったけれど、営業をしていました。お茶と言問団子を注文し、お団子を楽しみました。美味しかったです。昨日も新宿の喫茶店で遅くまで話し込んでいて、今日も遅くなってまずいと思って、タクシーであわてて両国へ。駅のホームで両側の電車に乗って別れました。

上の記述は、日記の8月2日のところに書かれていたものです。その日に書いたものではなく、後で思い出しながら書いたものなのですね。その後に7月23日と30日にも会った時のことが同じ日付の項で次のように書かれています。

「リルケ詩集を借りるということで、二十三日にも会った。彼女は就職の身体検査で赤坂のNCR本社に行くので、僕は直接そこへ行った。一時にロビーで会う。まだ用があるというので、八階の食堂で僕が食事して二時半に又同じロビーで会うことにして、僕は西鶴を読んでまった。やがて現れて赤坂へ出てアメリカ文化センターに寄って地下鉄で神宮前に。そこから根津美術館に行って庭を歩き、漆を見て庭を歩き(蚊が多かった)裏から青山墓地へ抜けた。ここでは蚊がひどく、彼女の方が露出面積が広いのでカユイカユイと言っていた。悪いことをした。神宮のサンドリアという店でケーキを食べて、しばらく話し、神宮外苑を抜けて千駄ヶ谷で西と東へ分かれた。
実際にはいろいろな話をしているはずだけれど詳しくは思い出せない。リルケ詩集は彼女の片眼、片足だという。大江健三郎、個人的体験に出てくる宿酔いの話、苦しいこと。実は七日の僕がそうだったので。

七月三十日にまた会った。彼女が三十一日九州へ向けて旅行に出るのでその前に会いたいと思っていたら二十九日に手紙が来たので電話で約束して新宿で会う。買い物があるそうだから三時半伊勢丹前で。彼女は緑色のワンピースに白い靴だったけれど、髪を短くしていた。御苑へ行く。広々としていた。緑がとてもきれいだった。少し歩いて西洋庭園の芝生の上に腰をおろしてゆっくりした気分で話した。その間僕は時折走り回ったり飛んだり跳ねたり。別に気狂いじゃなくて。
大木戸門からでて四谷まで歩いてしまう。途中、四谷予備校(注:正しくは駿台予備校四谷校)の僕が行っていた時分良くこの道を歩いたこと、彼女は神宮が根城だったこと。青葉(注:正しくはわかば)で鯛焼きを食べて、僕はバイトがあるのであわただしく分かれた。

タイ焼きわかばのページより拝借

これが概略である。もっといろいろと話をしたのだけれど、また思い出し次第書き留めることにする。今頃は高千穂の大和屋ユースホステルで、僕の第一便を読んでいるだろう。」

この後も、日記には和田かをりさんとのことがいろいろと書かれています。
「八月十七日(土) 和田かをりさんへの手紙
クラスの友達に誘われて、動物愛好会とかいう会主催の夜の動物園見学に参加。足が棒になって、おなかは空くし。
夜の動物園、昼間の雑踏とは打って変わり、夏というのに涼しい風が駆け抜ける、暗い静かな都会のネオンの底に沈んだ不思議な世界。動物たちも静かに、昼間見せた見せかけの表情ではなくて、自分の内面をぶちまけて彼自身に充分になり始める。あるものは夕方差し入れられた鶏の頭を喰い散らし、ほんのちょっぴり昔の故郷を思い出す。又あるものはコンクリートの床にあお向けになって床の固さを嘆きつつ土の香りともっと濃い草原の生々しい臭いを思い出す。皆一様に悲しそうなメランコリックな姿態をさらして夜の底で息づいている。所詮でられない、この狭いオリのなか今はせめて昼間の視線を逃れて、ほっと息づいている。明日になれば又、容赦なくそれらによって奪われる自分の一部を今はしっかりと自分に繋ぎとめておくために緊張して自分を保っている。四囲を包む鉄柵には、この鉄棒の中のこの人工のおしきせの世界に、突然投げ込まれた日を思い出させる傷跡が今も残っている。
あれは僕がまだ若かったころの虚しい試みに過ぎなかったのだろうか。反抗が僕の全てだったし自己実現の道だった。充実した日々を思い出す。あらゆるおしきせを嫌い、権威には爪を立てて反抗した。結局革新が若者の選ぶ道だ、そういい聞かせた。飼育係からはどうにも手のつけられない暴れ者として嫌われた。彼らは常に僕たちを理解しているといった風においしそうな餌をだす。それでちょっとでもおとなしくなるともうすべてが理解し理解されたようにそばへ寄ってきたりするのだ。僕たちの苦しい内面の戦いなどにはてんで無関心、ただ表面だけがうまく取りつくろってあればもうそれで能事終わりって態度だ。僕がこの世界にどうしようもなく投げだされているなどということには少しも関心はありゃしない。ただ服従し、いうことを良く聞いてイイコであれば満足だ。僕は毎日クタクタだ。昼はお化け共の行進によって俺は身も心も切り裂かれてしまう。そして教育などというもので精神もなにもメチャクチャにして厚顔無恥にしてしまおうとする。彼らは常にムチと飴でもって教え込み、競争心をあおりたて、時々晴れがましい舞台にだして自尊心をくすぐり増々鉄面皮にしてゆく。僕はもう今は首までどっぷりと、そんななかに漬かってしまった。脱出すべきだ、僕自身を取り返すため射殺されるあもしれない、けれどもこの世界オリの世界から僕のための僕が選び取った世界へ。だけれどもそんなことはできない。今はもう昔のあの鋭い爪がただいたずらに伸びきって己れの肉体に食い込んでいる。今はただ、このタテガミというわずかな飾りだけが僕を保っている。そしてだんだん見えなくなる眼でもって最後の光を受けている。いつかは全く突然に死がやってくるだろう。どうしようもなく突然に。年老いたライオンは横になったきり空虚な眼を暗い空に向ける。
夜の動物園、それは寂しい都会の点景。やり場のない悲しみが一杯つまった不思議な世界。」
(下の写真はイメージです。横浜市広報課のTwitterより拝借)

こんな変な内容の手紙を出したのでしょうかね。この後、八月十二日の日付の項に、和田かをりさんが九州長崎YHから出した手紙が来た、という記述があります。

「八月十八日 和田かをりさんは今、九州に旅行しているのだが、実に多くの手紙をもらった。三十日に会ったとき、四谷の駅へ向かいながら手紙何通ぐらい出して欲しいと言われた。ウーン、二十日間旅行だからミニマム十通、ちょっと多いかな、平気よ、一晩で九通書いたこともあるわ、ほんと、というわけで今頃どこに居るのやら。今日、日南から二通(その一、その二)が来て、都井岬も行って、これから再び高千穂へ向かうといってきた。僕は三崎に来ている。星がきれいだ。」

「八月十九日 鏡の前の本人、鏡がこんなに軟らかく人を映すとは思わなかった。僕はもっと固い透徹した、そう冷厳に私を映す。それは対象された私、いやらしくも顔を持った私である。というのは普段私は私の顔を感じない。あるのは私の視線とその対象物だけだ。もちろん、私はそれをするとともに、私がそういう視線を持っていると反省以前的に意識している。」

「九月六日(金) 実に書かないのである。かをりさまとしょっちゅう会っているので、それについて特別事細かく書こうという気も起こらない。
勿論、浜離宮における昨日のことを述べてもいいのだけれど。
彼女が小さく僕の腕の中に入ってしまうのだ。陽が照っている、雲が走っている。本当によくあっているのだから。
試みに手帳を見ると、二十四日、二十六日、二十八日、二十九日、三十一日、九月二日、四日、五日」

手帳を見ると小さな薄い字で、しかも英語で、どこを歩いたかが書かれています。24日は四ツ谷駅で会って後楽園、その後千鳥ヶ淵でボート、今でも憶えているのは、貸出時間が終わってボートを桟橋に着けて降りるとき、先に降りたらボート屋さんのおじさんに、男は先に降りるもんじゃないと怒られました。先に降りて手を貸すのが正しいと思ったのに。その後、喫茶店ジローへ。26日は有楽町のニュー千疋屋でアイスクリームを食べたとあります。雨でした。28日は雨の中を四谷、外苑、新宿を歩きました。29日はまたも雨、お堀端を歩き、お茶の水の喫茶店「舟」へ行きました。31日は赤坂、白金、渋谷のコースでまたも雨でした。9月2日は映画(「九月になれば」と「恋愛専科」)を観て、新宿淀橋公園へ、この時から隣り合って歩いている手と手が触れて、自然と手を繋ぐようになりました。映画の影響かも。手帳には小さくHandと書かれています。4日には新橋から電車で新宿へ行き、そこから新宿中央公園へ、Holdとあります。5日には上にあるように浜離宮庭園でHold deeply、7日には下にあるようにkissesとなります。鉛筆の字は小さくて薄いので消えかかり、ルーペで確認する必要がありました。

この後、日記にはこのころ読んだコリン・ウィルソンの「敗北の時代」への言及があります。当時、「アウトサイダー」から始まる彼の著作をたくさん読んでいました。サルトルの実存主義とそれに関する本を読んでいたことは前に触れたと思いますが、ウィルソンの著作は、実存主義を悲観的ではなく明るい面を強調する論調で、自分にあっていたからでしょう。その後、ウィルソンは「殺人百科」からオカルトに軸足が移った感じで、読まなくなりました。

「九月八日
彼女は僕の腕の中にあった。
今およそ僕にとっての世界は大きく揺らぎ、僕の向き合う世界は「と共に」に変わってゆこうとしていた。暗い空の下、草の上で、おそらく一つの塊は黒々として異様なものなのだろう。けれども二人から広がる世界は、その底に静かな、限りなく美しい闇を提供してくれた。橙色に染まった雲が流れた。僕たちに言葉が要らないということはとても幸せなことだった。からみあう舌と共に、僕の腕の中の彼女を確かめた。彼女のふるえを僕もふるえと、一つになった。僕たちは息をのみ、吐いた。冷たい土の上のはずだったが、固い土の上のはずだったが、僕たちは暖かく燃えていた。やわらかく横たわっていた。
彼女は僕の腕の中にいた。

ウンとリアルに
赤坂のアメリカ文化センターの前に着いた。僕は彼女がいるだろう二階の窓を見上げた。彼女の姿はなかった。ニ三歩、歩を進めると、手を振って彼女が入口から出てきた。「イヤ、、上に居るかと思った」彼女はどうして僕の来る時間がわかったのだろう。地下鉄の駅に向かって歩き始めた。勿論乗らなかった。左へ折れて青山通りへ向かった。彼女は黒いスカートに、白いタートルネックのノースリーブのブラウスに水色のコットンカーディガンを羽織っていた。空は曇っていて雲の流れが早かった。僕は重いカバンにうんざりしていた。彼女は小さいノートを入れたバックと辞書を持っていた。「タバサって意味知ってる」「さ、あの『奥さまは魔女』に出てくる子供の名前」「うん、それ確かサバタか何かっていう言葉の逆さだと思うんだ。喫茶店が本郷にあってね」「ちょっと辞書ない。逆だとAHTかな」、、
「あのときのスカーフのコールタールのしみ、今年の春、房総の白浜へいって敷いた時についたものだったわ」「房総にも和田ってところあったね。三浦半島にもあるんだ。何か関係あるかな」「サー、家は松代だけれど知らない」「前に鎌倉の北条氏が和田合戦で和田をたおし、三浦氏を滅ぼしたあたり興味があったんだ。それで実験所が油壷で三浦の城があったところだからね。鎌倉になんかよく行く?」「二回かしら、遠足と大学へ入る年、八重ちゃんと円覚寺、瑞泉寺なんか」「『天国と地獄』っていう映画の話ししたろう。あの映画、横浜が舞台なんだけれども子供がさらわれて湘南のどこかに監禁されるんだけど、それが湘南ではまず見える江の島あその子に聞いても絵に描かせてもないんだ。それは腰越にある小動岬と江の島が陸続きみたいに見えるからなんだ。それでそれを捜しにあの辺を歩いたんだ。江ノ電に載ってね」彼女は笑う。「可笑しいかい」「太宰を読んで、金木へは行きたくなったけれど、映画ではないわ」
やがてサンドリア、左へ行けば青山墓地、外苑へ。まだ明るい外苑の野球場には草野球を楽しんでいる人たちがいた。明治神宮の方へ行ってみましょう」「うん」歩きながら、ここは学区域、この前のこともある。でもこんどは「ヤア」という。「『勉強やってるかい』ってネ。」「え、どきっとサセル」「あら森谷さんのことじゃないわよ」「被害モーソーだ」
野球場、六大学が開幕だ。「どうも東大は弱くてね。新聞の六大学予想じゃ最後の一行さ」下を黒い一群、カラスの散歩。どこかの応援団「立ナントカって読める」「立教かな」「立正大学応援団」何にも言わずに二列に並んで行進、「不気味な感じ」「歌も唱えない」
明治神宮はもう閉まっていた。時計は五時を少しまわっている。「ごめんなさい」「ジャー、もとに戻ろう」
(下の写真はイメージです。神宮球場公式Twitterより)

外苑の野球場はもうそろそろ暗くなり始めていた。板のベンチに腰かけてしばらくみていた。彼女はパーマを昨日かけたという。お姉さんと一緒にパーマ店へ。「スプレーはいらないっていつもいうの。あれは嫌いだわ」「ハマグリを焼いたのは食べるけれど吸物はいや。ごはんにまぜても。タケノコごはん栗ごはん松茸ごはんは大好き」野球は終わった。僕たちはベンチの冷たさと狭さをさけて球場の草の上を歩いた。「芝生は緑、デボラ・カー」「あの男の人はウーンと」「ケーリー・グランド」思い出した。隅っこは坐りごこちが悪い。外野の芝生の上へスカーフを敷いて腰をおろした。正面に神宮球場のライトが照っていてまぶしかった。蚊が多い。ちょっとの間に何匹かが集まってくる。でも僕たちは坐っていた。いつの間にかあおむけに寝ころんでいた。星はなかった。彼女の顔が僕のすぐ近くだった。僕は彼女を抱いていた。二人の頬で唇が動いた。唇があっていた。二回目は長かった。長い舌の握手だった。唇を離すと僕は彼女を思い切り抱きしめた、長い吐息と共に。ライトは明るく照っていたが、気にはならなかった。蚊の攻撃さえも。何回も唇を重ねた。立ち上がり、歌を口ずさみ、抱きあって踊った。蚊もいなくなっていた。腰をおろし、抱き、唇を重ね、倒れ、抱きしめる。言葉はなかった。要らなかった。長い間そうしていた。彼女は僕のあごを噛む、いたずらの口。野球が終わった。ライトが消えた。闇の底でしばらく僕たちは抱きあい、唇をかさねた。立ち上がり、踊り、キスし、抱きしめる。
千駄ヶ谷駅へ向かうために球場を後にしたのは十時少し前だった。

「九月九日
 地に臥せど 空を飛翔たり
 闇の底に 妹を抱きて
 温かき乳房の感触に
 頬の燃えて からまる舌に
 交情の喜びを知る

ヒヨドリが鋭く叫び、雀たちが姦しく饒舌に鳴きあう。松の枝にオナガが低く叫び、四つ五つと渡ってゆく。
ひさし振りに碧く晴れた空に陽が傾き、涼しい風が吹きわたる。あっちの林も紅くなり始めた葉がそよぐ。秋の静かな夕暮である。僕はそんななかに居て、しっかり自身で居ようと思う。自分の体をこわばらせる。ひとりでにながされてゆく燃えたってしまいそうになる自分をなんとかつなぎとめようとする。歌ってばかりは居られない。燃えたとうとする灯を静かに手で抑えて胸の奥の底に、しっかりとすえる。そう、これでいい。ここで静かに燃えていろ。けっして嘘ではないのだと、皆に見せてやれる日まで、僕は確かに燃える灯を感じ、腹ばいになったまま、静かに眼を閉じる。雀が一段に鳴き騒ぐ。

僕がなぜ寡黙であったのか、わかったような気がする。恐ろしかったのだ。感情の起伏をなるべくなくするようにしていたのだ。いつもそうだ。僕は自分が立ち上がり、手をさしのべてぴしゃりとその手を払われる。僕はやり場のない手を恥ずかし気に頭にやって、照れ隠しの笑い。そんな場面はもうたくさんだ。
けれどももうだめだ。僕の口火が切れたのだ。
まるで彼女への寡黙の反動みたいにしゃべりまくり、泡を飛ばし。お馬鹿さん。

僕はやはり今まで極めて観念の上で人を愛していたのだと気がつく。過去に思いをはせた女たちは確かに真に女ではなかったのかもしれない。とこう書くのは一つの合理化に過ぎず、過去を甘美にしようとい悪賢い試みでもある。」

日記の次のページには、九月十四日(土)のもとに、次のような文章が書かれていました。いったいどうして、こんな文章をこの時に書いたのでしょうか。謎です。
「ーもう八時か、今年はまだ九月だっていうのに大分涼しいなー
 ーそうね、九月に入ってからも涼しい日ばかりで夏が短かった
 ーコタツがそろそろ懐かしく感じられる頃だものネ
 ーエエ、でもまだ早いわ。
 ー寒くなってくるとなんとなく人懐かしいような、大勢で笑いあいたいような感じになるな。
 ー・・・・
 ーコタツに入って蜜柑の皮をむきながら冬の夜の団欒なんて二人じゃ無理だね。ウウン、これじゃ嫌だっていうんじゃない。
 ーアナタ
 ーウン。なんだい、小さな声出して。
 ー二人じゃなくなるの、もうすぐ。
 ーどうして
どうしてって今日分かったの、妊娠三ヶ月だって。何だって、エート妊娠っていうと、そのあのつまり、子供ができたってことか。おい本当か。エエ、アナタ嫌? 嫌だって、とんでもない、おいそりゃほんとうかい。乾杯だ、万歳だ。そうか。イヤーン、そんなにはしゃいじゃ。何を見てるの。駄目お腹なんてみちゃ。イイジャナイカ、ちょっとさわらしてくれよ。だってまだ三ヶ月よ。でもさ、フムフム、ここに居るな。トントン、こんにちは私ですよ。駄目よ、たたいたりしちゃ。エ、ア、ちょっとまずいな。ごめんなさい。この位かな、もう。さあー、どうかしら。ウーン、ソウカ、子供か。僕と君、そのあいだに違う人間がはいってくる訳だな。不思議なものだ。僕でも君でもない人間がさ、このなかで大きくなっている。」

ここよりお借りしています。

「九月二十一日(土)
昨日でやっと大学院入試が終わった。
早速電話をかけたら、五時~七時に新宿のルノアールに居て、九時半以降に家に帰っているからといういう家の人の電話だったので、新宿へ出た。四時半少し過ぎだったので紀伊国屋をブラッとして、そのあたりをうろついてルノアールの前を歩くと向こうの方を赤いワンピースが歩いている。アッ彼女だ。そばへ寄って行くと驚いた様子。九州旅行の時の写真を見せ合う約束だという。少し遅らせてもいいというので歩いて南口から小田急百科店のロビーで少し話して明日(即ち今日)会うことにした。
お茶の水駅で待ち合わせ。三越へ伝統工芸展を見に行く。たいした作品はなかった、白萩だけか(人形一品も)。早かったから浜離宮へ再び行くことにした。
土曜日だったのでさすがに混んでいたが、この前見ていなかったのでブラッと一回りして、芝生に腰を下ろして寝ころぶ。九州の写真は昨日見せてもらったし、後楽園での写真をもらう。僕の方は試験終わったが、彼女は来週の火曜日からなのだ。まだ明るかったが僕たちはピッタリとくっついていた。軽いくちずけ。入学試験の前の一週間苦しかった。今、ここに彼女がいる。僕は何も言う必要がない。
日比谷から皇居の方へ歩いて、夕焼けを見た。三宅坂から半蔵門の方へ歩いた。疲れたといって僕たちはお堀に面した植え込みの中に腰をおろした。長い接吻だった。何度も。僕は自分が自然と彼女の胸へ唇を移した。小さい乳首にも接吻した。僕たちは固く抱合い深い合一感に浸った。余り多くを語る必要はない。その時も言葉はいらなかった。心だけが十分に語っている。風が涼しかったが僕は燃えていた。彼女も。千鳥ヶ淵から竹橋、お茶の水へと歩いて帰った。さようなら、風邪をひかないように。二日に会うときまで。明日から軽井沢に行くことになっている。」
手帳には21日のところに、小さくpettingと記されていました。

ここよりお借りしています。

九月二十四日(火)の日付のもとに、日月と軽井沢に行ってきたとありますが、何の目的で軽井沢に行ったのか、まったく憶えていません、鬼押し出しとか白糸の滝を訪ねているようですが。

中断をはさんで1967年4月からずっと続いてきた日記は、1968年9月24日の記述を最後に書かれなくなっています。どうやら、かをりさんとは頻繁に会っているので、書くのが間に合わない?のでしょうか。とりあえず、手帳に書かれているものを書き記すだけにします。

10月2日(水)、東大三四郎池南端であって、上野へ。3日(木)、赤坂で会って千鳥ヶ淵へ、ちょっとした事件という書き込みがあります。5日(土)、目白駅であって田中屋、その後新宿。7日(月)、お茶の水駅聖橋口で会って銀座のソニービルへ。10日(木・祝)新宿駅ホームで午前9時に会って遠出、平林寺へ。12日(土)、赤坂で会って外苑、千駄ヶ谷、四谷。14日(月)、東大三四郎池南端で会って秋葉原、神田、竹橋、お茶の水。日本女子大であって、東京カテドラル、新宿。19日(土)お茶の水駅聖橋口で会って東御苑、銀座、皇居前、東京。24日⦅木⦆かをりさんとその友人と共に新潮文化講演会へ。確か新宿紀伊国屋ホールで大江健三郎の核時代の「想像力」、その後、喫茶店らんぶるへ。26日⦅土⦆赤坂離宮前で会って、四谷、外苑。30日(水)赤坂ACCで会って、新宿御苑、新宿中央公園。31日(木)東大赤門で会って皇居前。

11月2日(土)お茶の水駅であって、明治神宮、青山、外苑、信濃町。3日(日)目白祭、早稲田祭、モンモランシー、らんぶる、新宿中央公園。4日(月)赤門から不忍池。7日(木)赤門、竹橋脇、お茶の水。10日(土)代々木、神宮、モンモランシー、らんぶる。11日(月)赤門、竹橋脇。16日(土)ACC、国会前庭園、お茶の水ウィーン。20日(水)日本女子大、らんぶる。21日(木)お茶の水、三越、竹橋脇。23日(土)お茶の水、上野、渋谷、駒場、駒場公園、原宿、新宿らんぶる。24日(日)それまでWith Kaoriだったのが、Withを消してToにしてTo Kaori’s homeと書かれていて、友人のYaeちゃんが家に来たとあります。そしてその後に、英語で次のような走り書きがあります。
Some kind of decision which I have vaguely but never said because of the condition or the state of mine being concreted. 
英語としては正しくない気がしますが、なんとなくその心情は想像できるような。26日(火)講演会、大江健三郎と?新宿中央口。28日(木)新宿らんぶるで5時間。30日(土)ACC、?、竹橋脇。

12月1日(日)上野の国立博物館の東洋展、東洋館,上野、西千葉、泊。午前4時寝、それまで卒論手伝いと、、、。2日(月)午後3時半西千葉、ACC、千鳥ヶ淵。4日(水)らんぶる。5日⦅木⦆ACC、本郷ルオー。7日(土)ACC、四谷、西千葉。8日にかけて→があり、おそらく泊。

手帳の最後の書き込みの次のページに赤いひものしおりが挟んでありますが、これ以降には書き込みはいっさい無くなっています。最初の方に書いた安田講堂攻防戦のテレビ中継を西千葉で観た記憶があるので、時折泊まっていたのだと思います。こうして学生スト期間中を最大限に利用して和田かをりさんと会っていた日々が過ぎ、再開された講義と実習をこなしていったんだと思います。


科学と生物学について考える一生物学者のあれこれ