青雲の記6 三崎大学院・ポスドク時代

1971年4月に博士課程に進むとともに、小林先生を追う形で三崎臨海実験所へ拠点を移し、ウズラを使った研究を継続しました。歯科用X線装置と歯科用の電動ドリル、棺桶も一緒に移動しました。臨海実験所でウズラなんて、と周りから大分言われましたが、もう研究を始めているので変えるつもりはありませんでした。実験所の敷地内には、すでに南側の崖に沿ってプレハブの小屋が2棟あって、1棟ではラットを飼育し、もう1棟でウズラを飼育していました。小林先生が、尿崩症のラットを使っていたのです。もう一棟には先に来ていた有松さんがウズラを使って行動の仕事をしていたので、そこに割り込む形で、ウズラを飼いました。

論文にして投稿する
修士論文をさらにブラッシュアップして投稿する作業を続けました。このあたりのことは、日本比較内分泌学会が出している「比較内分泌学」という冊子に「初めての論文と『比較内分泌学入門』」というタイトルで掲載されていて(43巻162号2017年)、かなり詳しく書いているので、以下に該当する部分を引用しておきます。《》は今回書き加えたものです。

 「こうした結果を、修士2年の時(1970年)に九州大学で開かれた日本動物学会第41回大会で初めて発表をした。その後、動物学教室への修士論文提出のために、本格的な論文執筆に突入した。初めての、しかも英語による論文である。
 定石にしたがってMaterial & Methods を書き、Resultsを書き、その後、おもむろに引用文献を読みながらIntroduction とDiscussion を書いた。この論文は28の論文を引用しているが、どの論文もよく覚えている。4つの論文がフランス語で書かれていて、辞書を引き引き苦労して読んだ。

 実際の執筆は、《上の写真にあるように》まず鉛筆で下書きをし、それをもとにタイプライターで清書する。当時はワープロなどなかったので、ハンマー式のポータブルタイプライターを借りて打ち込んだ。タイプが打てるようになるために、研究室にあった教則本で指使いなどを覚えたものである。手動式のタイプは、キーがとても重かった。
 A4の紙にタイプで清書したら、小林先生に見てもらう。小林先生は草稿を読んで、訂正あるいはコメントを入れてくれる。最初のうちは、ページ全体に濃い鉛筆で斜線が引かれたダメ出しを受けることが多かった。返ってきた草稿を見るたびに、黒々とした鉛筆の直しにショックを受けたものだ《下の写真》。でも、コメントに従い訂正をすることでグンとよくなる。丁寧に読んでくれていたのだと思う。最初は小林先生自らが右側に紙を張り付けて書き込みをされていたが、3稿以降は最初から全ページの右側に白紙の紙を貼り付けて提出した。こうしてやり取りをして次第に形を整え、4稿になったところで小林先生は、H. A. Bernのところに行き、読んでもらうように頼みなさいとおっしゃった。当時、Bern は東大海洋研の平野哲也さんの研究室に滞在していたのだ。

 そこで清書して、海洋研に行き、見てもらった。細かい言い回しの訂正やthe の使い方、単数・複数の誤りなどを指摘され、それを訂正した後に5稿を修士論文として提出した。この5稿にさらに小林先生の手が入り、投稿論文とするために、Summary をつけ(これは小林先生にお手本を書いてもらっている)、キーワードを付けて投稿論文としての体裁を整え、冒頭の雑誌《Zeitshrift fur Zellforscung und mikroscopische Anatomie》に、論文投稿の手紙をつけて1971年6月1日に投稿した。もちろん図もつけて。当時はロットリングでグラフや図を描き、写真に撮って印画紙に焼き、厚紙に貼って提出したもの
である。別便で小林先生がFarner 宛に、Avian Biologyの依頼原稿の遅れを詫びるとともに、Wada から投稿があるからよろしくという添え書きを出してもらっている。当時この雑誌は、A. Oksche とFarner がEditor-in-Chief だった。実験の計画から、実施、論文書きまで、一人(本当にそうかは?だが)でやってきたという自負があったので、単著で投稿した。それで謝辞の欄には以下のように書かれている。

Th e author wishes to express his gratitude to Professor Hideshi Kobayashi for his valuable guidance during the course of this study, and also to Professor H. A. Bern for his kindness in reading the manuscript. This investigation was supported in part by a Grant-in-Aid for Scientific Research from the Ministry of Education of Japan and a Grant from Population Council (M67.133).

 今、この部分を読んでみると、自己肯定力を越えて、ずいぶんと思いあがったものだと思う。これだとグラントによるサポートは著者へのものだと読めてしまう。当時は研究経費のことなど全く念頭になく、使いたいように使っていた、もちろん浪費はしていないが。このようなことをすべて許していてくれた小林先生には、あらためて感謝の気持ちでいっぱいである。
 6月8日付で、編集部から論文を受け取ったという知らせが葉書できた。葉書を見たときは「やったー」と思ったが、これは単に受け取ったということで、7月19日にFarner から、interesting manuscript なので、With some adjustments でアクセプト可能、もう少し短くせよという手紙と、鉛筆で直しが入った投稿原稿が戻ってきた。Introduction の冒頭が削除されていたりして、かなり大幅な直しだったが、なるべくそれらに従って訂正、書き直し、Discussion 部分を短くする作業を、小林先生と相談しながら行った。9月16日に再投稿の手紙を添えて(これもお手本の下書きを小林先生が書いてくれた)送
付した。9月21日に受け取ったという葉書が来て、10月5日にアクセプトの葉書が来た。
 この後の校正作業などの詳細は省略するが、こうした長い経過があったので、別刷りが送られてきて、包みを解いて刷り上がりを見た時の喜びはひとしおだった。」
下の図は、アクセプトを知らせる葉書とその処女論文の最初のページです。

(再掲)(:なお発表した論文はこのサイトの研究のタブの下に論文名と共にPDFを閲覧できるようになっています)(論文1)

次の実験・ピューロマイシン植え込み
上に書いた投稿論文の執筆と並行して、4月からすぐに実験を始めました。油壷では、ウズラを入手するのが大変でした。本郷にいたときは、豊橋の鈴経商店から本郷三丁目にある岩瀬鳥獣店に送ってもらい、そこへ取りに行けば済みましたが、油壷ではそうはいきません。4月から始めたピューロマイシンの植え込み実験のための実験シートに、入手先としてイワセと日生研の記述があるので、最初はこの2か所から取り寄せたのかもしれません。横浜線小机(あるいは鴨居)駅から歩いたところの養鶉業者(城北ウズラ園)のところへ買いに行った記憶があるので、後になると別の販路を探して鈴経商店から紹介してもらい、この業者を通して購入したのかもしれません。いずれにしても、ウズラの入った段ボール箱を下げて、京浜急行の三浦海岸駅まで行き、そこからバスで実験所まで。この頃はまだ京浜急行の三崎口が開業していなくて(開業は1975年4月26日)三浦海岸駅が終点でした。電車の中でもバスの中でも、ガサガサ動き回り、ピーピー鳴くので、なんとなく恥ずかしい思いをしました。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: UzuraBox-1.jpg

中雛は輸送用の段ボール箱に入れられて送られてくるのですが、上の写真は、アリババの通販サイトにある中国製のものをコピーしたもので、当時のものは段ボールがもっと厚く、上面の面積がもう少し狭くて高さは低く、横にたしか鈴経商店の名前の印刷がありました。たいてい、頭数の関係で、これを2段に重ねてひもで縛ったものを送ってもらっていました。

「鳥類における視床下部の脳下垂体支配機構」の解明が研究の大枠なので、次のステップは視床下部の各部位を電気的に破壊して、影響を調べるのでしょうが、そのような研究はすでにSharp & Follettなどによって行われているので、 同じことはしてもしょうがないと思いました。すでに書いたように、Saxenaさんのピューロマイシン植え込みがうまくいったので、この方法を取ることにしました。ピューロマイシンによってニューロンでのタンパク合成を阻害して、その影響を見ようというわけです。電気的破壊よりも狭い範囲の影響を見ることができることが期待できます。

飼育環境が変わったので、最初に短日と長日条件で、これまでと同じような結果が得られるか試していて、同じ結果だったので、これを対照群としています。その後は、n. tuberisを目標に、内径0.2㎜のチューブにChlとピューロマイシンを重量比で1:500の割合に混ぜたものを詰め込んで両側性に植え込み、頭骨に固定して短日から長日にして、精巣の発達が抑制されるかを見ていきました。9月初めまでかかりましたが、1:500では効果は見られませんでした。そこで、濃度をあげて1:50にして、集中的に、n. tuberisをめがけて植え込みました。その結果、核のごく近傍に植え込むと精巣の発達と総排泄腔隆起の発達に対して、抑制効果がみられることが示されました。ただしテストステロンの場合よりも効果は小さなものでした。下の図の左は精巣重量、右は総排泄腔隆起の発達を抑制した部位を示しています。

実験は,翌年の6月までかかったようです。
これらの結果をまとめて、処女論文の時のように鉛筆書きによるドラフトから始めてタイプして小林先生に見てもらう作業を経て、投稿論文に仕上げ、最後はC. D. Turnerさんに英語を見てもらい、General and Comparative Endocrinologyに投稿しました。1973年3月でした。アクセプトされたのは5月で、掲載されたのは1974年の1月号でした(論文4)。GCEのEditor-in-ChiefはAubrey Gorbman教授で、Z. Zellforsch.のEditor-in-ChiefはDonald S. Farner教授、どちらもワシントン大学の動物学部の教授なのですね。

結論として、n. tuberisがgonadotropin releasing factor(s)の産生部位で、長日刺激によって正中隆起から脳下垂体に向けて放出されているのだろうと推察しています。
論文では全く触れていませんが、実験ノートを見ると1:1000の濃度を使った実験も行っています。もちろん効果は全く見られませんでしたが。

Hypothalamic deafferentation
次に長日であるという情報が、どのように視床下部への伝えられるのかを調べるために、当時ラットで流行っていたHalaszのナイフを使った実験を計画しました。Halaszナイフというのは、次の図にあるような形をした刃と心棒がチューブの中に収まっており、上部のハンドルを使って回転できるようになっています。これを脳定位装置につけて脳に差し入れ、、一回転すると、下の図のように視床下部の大部分への入力を遮断されます(deafferentation)。もちろん、ナイフは自作で、心棒を叩いて平らにして研いで磨いて、刃を作りました。

結果の図などはもうここに載せませんが、上の図のようにナイフを一周させて視床下部内腹部を孤立させてしまうと、長日刺激は全く無効になってしまいます。前方部分だけを180度回転して前方からの入力を断ってしまっても、長日効果はなくなってしまいますが、後方部分からの入力を絶った場合は長日による効果は残ります。視床下部内腹部への入力は、前方からであることがわかります。かなりシビアな操作なので、死亡率は65%に上り、例数をそろえるのが大変でした。
これまでと同じように、下書きを書き、タイプをして小林先生に見てもという過程を経ましたが、少し慣れてきたので稿をそれほど重ねずに完成原稿としたようです。1973年8月20日にGeneral and Comparative Endocrinologyに投稿しました。その後、レフリー2人からたくさんのコメントがついて戻ってきました。英語がひどい。間違いが多いとの指摘があり、ガックリきました。レフリーの意見に従って直すとともに、指摘に誤りがあると根拠をあげて反論した手紙を添えて、書き直した論文を再投稿しました。その結果、1974年6月10日付でアクセプトしたという葉書をもらいました。1974年の10月号に掲載されました。(論文5)

ここまでの研究で、先行研究の結果と合わせて考えると、視床下部内腹部には脳下垂体からのゴナドトロピンの分泌を促すReasing Hormonニューロンがあり、このニューロンはテストステロンの負のフィードバックを受け、光周性刺激は前方からやってくるという全体像を描いていました。

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1971年にブタとヤギで、LHRHがデカペプチドであることが同定されました。すぐにLHRHに対する抗体を使った免疫組織化学法により、視床下部の産生ニューロンを同定する研究があらわれましたが、鳥類を使った研究ではn. tuberisに免疫反応を示すニューロンは見つかりませんでした。気をもんで論文を検索して読んでいた記憶があります。
現在では、「ニワトリでは、cGnRHニューロンは内側中隔核、内側視索前野、嗅葉傍野、嗅球などに分布し、cGnRH II ニューロンは中脳に分布する。」(ホルモンハンドブックより)とあり、視床下部内腹部のn. tuberisのニューロンにはGnRHは含まれないとうことになっています。
その後の研究で、GnRHニューロンは鼻プラコードから生じ、発生に伴って移動して視床下部の前方に散在するようになることが明らかになりました。さらに、生殖腺刺激ホルモンの分泌には、GnRHだけでなく多数の因子が働いていることが明らかになっています。
これらのことを考え合わせると、上で描いた全体像は誤りで、GnRHニューロンは視床下部の前方にあり、Halaszナイフではそこから正中隆起までの経路を切断したために生殖腺刺激ホルモンの分泌が絶たれたのであり、テストステロンの負のフィードバックはおそらくn. tuberisを介してGnRHニューロンの軸索末端に作用する、というのが正しいと思われます。
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プロラクチンと甲状腺
1972年に、プロラクチンと甲状腺のactivityの関係を探る実験を行いました。どうしてこの実験を計画したのかはっきりと憶えていないのですが、小林先生の依頼あるいはサジェスチョンだったのだと思います。newtではプロラクチンが甲状腺機能を阻害することなど、両生類で多数の研究があり、鳥類ではどうなっているかを確かめたかったのかもしれません。実験としては、ovine prolactinを注射して、血中のT4を測定し、甲状腺の組織像を観察しています。プロラクチンを注射すると、甲状腺濾胞の大きさは小さくなり、濾胞上皮細胞が肥厚していました。一方、血中のT4のレベルは低下していました。プロラクチンが甲状腺濾胞細胞に作用して、T4の分泌を抑制したことを示唆しています。この仕事はこれ以上発展することはなく、単発のものとなりました。手元にあった甲状腺濾胞の写真を載せておきます。左が対照群、右が50IUのプロラクチンを注射した群の個体のものです。

この論文は有松靖温さん、小林先生との共著になっていますが、執筆は筆者がやっています。鉛筆書きの初稿から手元に残っています。GCEに投稿したのが1974年8月で、最終的にアクセプトされたのが1975年4月11日でした。この間、レフリーからのコメント付きで戻ってきていて、直して再投稿するのに手間取ったようで、エディターから催促が来ていました。(1975)(論文8)

電子顕微鏡を使って脳下垂体を観察
小林先生はずっと電子顕微鏡を使った研究を行っていたので、臨海実験所にも電子顕微鏡を導入しました。湿度の高い環境なので、メインテナンスが大変で、ずっと乾燥のためのポンプを回していました。先に使いこなしていた1年後輩の常木和日子さんに電子顕微鏡技術を教えてもらいました。ガラスナイフの作り方から、組織の四酸化オスミウムによる固定法、エポン樹脂への包埋、ガラスナイフによる超薄切片作成、切片を酢酸ウランとクエン酸鉛で染色、電子顕微鏡での観察・撮影の仕方などを習いました。

習った電子顕微鏡の技術を使って、ウズラの脳下垂体の6種のホルモン(LH、FSH、TSH、ACTH、GH、PRL)を分泌している細胞をそれぞれ同定しようと試みました。上に挙げた6種のホルモンのうち前半の3つは糖タンパクホルモン、後の3つは単純タンパク質ホルモンです。光学顕微鏡レベルでは、前3つは好塩基性細胞、後半の3つは好酸性細胞で作られることはわかっていました。鳥類の脳下垂体前葉は、cephalic lobeとcaudal lobeに分かれています。6種の細胞がこの領域にどのように分布し、LHを産生する細胞とFSHを産生する細胞はどれかを推定しようとしたのです。そのために、短日で飼育して非繁殖期状態のウズラ、長日刺激をしたウズラ、さらに非繁殖期状態のウズラにLHRHを注射した個体から採取した脳下垂体は重さを測った後に固定、包埋して、超薄切切片と隣接する厚切り切片(1μm)を作成しました。もちろん、総排泄隆起の大きさ、精巣とその他の内分泌器官の重さも記録しました。

超薄切切片は電子顕微鏡で観察し、厚切切片は脱エポンをしてPAS・Alcian blue・OragneGとHerlant’s Tetrachrome法で染色しました。これらの染色法によって、好塩基性細胞と好酸性細胞の区別がつき、cephalicかcaudalの分布の違いによって、6種のうちのどのホルモンを分泌するかという推定ができ、隣接切片の電顕像の細胞と対応させることができます。鉛筆書きのメモが残っていました。こうして染色性から電顕像の細胞のタイプと細胞質に含まれる顆粒の大きさを決めることができました。

電顕の写真をたくさん撮影したと思うのですが、手元にはほとんど残っていません。ファイルフォルダーの中にあった下の写真は論文の図3と同じもので、長日で飼育したウズラのcaudal lobeのもので、ネームは今回入れたものです。

実験は1973年4月から始めているようで、LHRHの注射は、論文には書かれていませんが、最初は5μgでやって、6月から10μgで行っています。長日刺激をすると、gonadotrophの細胞内の顆粒の数が明らかに増えていて、細胞膜の様子も変化しています。10μgのLHRHの注射によって、同様な変化が起こりましたが、脳下垂体の重さはいくらか増加したものの、精巣の大きさはそれほど大きくはなりませんでした。Cephalicとcaudalのgonadotrophでは、顆粒の様子や染色性などは明らかに異なり、cephalicのものがFSH細胞で、caudalのものがLH細胞だと推定しています。これには次に述べる免疫組織化学法の結果があったからです。
こうした結果を得て、いつものように鉛筆書きによる草稿から始まり、タイプ打ちの原稿、小林先生との間のやり取りをした草稿が残っています。ある程度まとまったところでタイプして、1974年に提出した博士論文の一部にしています。

最終的に投稿したのは1975年になってからで、受領の葉書が1月23日となっています。後で述べるように、アメリカのシアトルへ渡った後で、Editor-in-ChiefのFarnerがそばに居るので、当然Z. Zellforsch.に投稿したのですが、このジャーナルはこの頃にはCell and Tissue Researchという名前になっていました。したがって、この後のやり取りは三崎時代ではなくアメリカへ渡ってからですが、ここに書いておきます。投稿した論文では、6種のホルモンを分泌する細胞は、Type AからType Fと記載していました。Editorial commentsで、Typeの表記はやめるようにといわれて、gonadotropic (GTH) cellsなどと直しています。さらに、I have made a number of editorial changes which I need your approval.とあり原稿に鉛筆書きの直しがたくさんありました。もっとショックなのは、図が周辺部でボケていてジャーナルのスタンダードを満たしていないので、図3は下の方を切り離して新しい台紙に貼って作り直すこと、図5と6は良い部分だけを切り出して小さくすることなどと書かれていたことです。ガックリ来るとともにカチンと来ましたが、泣く子とエディターには勝てないので、指示に従って作り直しました。下の写真が元のFig5で中ほどを切り取った後が生々しく見えています。しかしながら今、冷静に上の写真を見てみると、確かに下の方というか周辺はボケていて、カチッとした電顕像にはなっていないですね。手紙の最後には、時間がかかるだろうけど、待っているとありました。同じころ、まったく同じようなウズラの脳下垂体の電顕の論文が投稿されていてファーナーの手元にあったのです。こちらの著者はMikami、Kurosu、Farnerでした。後で見てみると、こちらの論文の電顕像は、いずれもカチッとピントが合っていてコントラストも高く、実にきれいなのです。見上さんは電顕を使いこなしているので当然ですね。初めて電顕を使い、その論文を書いた初心者として、まあ頑張ったと思うことにします。

こうしてとにもかくにも、Cell and Tissue Research の159巻2号の冒頭に、2つの論文がMikami et alとWadaの順に並んで掲載されました。(論文6)(1975)

免疫組織化学法による脳下垂体の観察
たしか1974年の3月だったと思うのですが、小林先生がFollettに頼んで、彼が作成したニワトリの脳下垂体から精製した黄体形成ホルモン(LH)とその抗体を送ってもらいました。有難かったです。小林先生は以前、Farnerの研究室でFollettに会っていて、いろいろと助けたことがあると言っていました。この抗体を使ってLH測定のためのラジオイムノアッセイ系を立ち上げました。この立ち上げはすべて1年先輩だった浅井正さんの協力、というか彼が主導して行いました。浅井正さんは小林先生の大学院生だったときに、放射線医学総合研究所の玉置文一さんの下で助教授だった若林克己さんについて研究を行い、若林さんが、1972年5月に群馬大学内分泌研究所(現:生体調節研究所)に付置されたホルモン測定センター(HAC)へ移動したときに一緒に移動して、確かこの頃には技官になっていました。

HACで、浅井さんと若林さんの指導のもとに、抗体を希釈して分注し、標準曲線用にLHの濃度を決めて、分注して保存しました。標準曲線の範囲は、0.25~32ng/mlの8段階で、Follettの標品名であるIRC‐2で表記しました。こうして、鉛のブロックを積んで遮蔽したドラフトの中で放射性ヨード125を使って実際にLHをヨード化し、第2抗体としてヤギの抗γグロブリン抗体を使った二抗体ラジオイムノアッセイ法を身に付け、実際のアッセイもHACで行いました。

この抗体を使って免疫組織化学法でウズラ脳下垂体のLHを産生する細胞の同定を試みました。電顕の仕事をまとめている頃にやっています。この頃は頻繁に前橋のHACに行き、そのたびに浅井さんの下宿に泊まらせてもらっていました。下宿は確かHACのすぐ近くだったので、夜遅くまで仕事をして、下宿で寝るというパターンでした。
さて、免疫組織化学法のほうですが、9月3日に3週齢の中雛を購入して短日で飼育し、22日に去勢手術をしています。何頭か試みているのですが出血多量で死なせたりして、結局、4頭のみが残りました。それで、4頭ずつのグループにして、残りの2つのグループは、intactで短日、もう一つはintactで長日、去勢したグループも長日で、いずれも2週間飼育しました。2週間後に断頭して採血し、すぐに脳下垂体を摘出して固定、精巣の重さも測定しています。採血した血清を使って血中LH濃度を上に述べたようにHACで測定しています。論文にはウズラの血中LHの値が載っていますが、自分たちで精製して抗体を作ったわけではないので、偉そうに言うほどではないのですが、これが日本で初めて鳥類のLHを測定した論文となりました。

肝心のLH細胞ですが、caudal lobeに陽性の細胞がたくさんあり、短日ではそれほど染まっていないものが、長日におくと細胞は核が偏在した細長い形となり、濃く染まるようになります。さらに去勢をすると染まり方が顕著になります。これらの切片は、観察の後、脱色して、PAS-Alcian blue-Orange Gで染色して好塩基性細胞であることを確認しています。これで電顕での観察と対応が取れることになります。Cephalic lobeの好塩基性細胞のGonadotrophはほとんど染まらず、代わりにもう一方の好塩基細胞は染まっていました。これはTSH細胞だと思われます。LHの抗体はTSHとクロスリアクションがあるのです。
下の写真の一番左は論文に載せたFig. 1のもの、右の2つは正中より離れた位置の切片のもので、論文には載せていません。これ以外にも多数の写真がファイルホルダーに挟んでありました。

いつものように論文書きを始めるにあたってまず鉛筆書きをしています。ここからはアメリカで始めたようです。タイプ打ちはアメリカでしていることは明らかで、紙型がA4ではなくレターサイズであり、タイプの文字からわかります。タイプし終わったものを浅井さんと小林先生に送って見てもらっています。

小林先生の鉛筆の直しはたくさんありました。配列が悪いとか、ここは長すぎるとかいろいろです。浅井さんからも技術的な部分の直しや書き加えがありました。こちらから、コントロールとして吸収した抗血清では染まらないという追加実験が必要かもと書いていて、これを浅井さんにやってもらっています。サンプルは野崎真澄さんが用意して、浅井さんが染色のために三崎に行ったようです。この間のやり取りの達筆な手紙あり、日付は1975年4月24日になっています。手紙にあるリピーティングディスペンサーの資料として、厚いVWRのカタログを送っています。

浅井さんからは、対照実験では予想通り染まらなかったという返事が7月14日にありました。この手紙の中で「内分泌現象」の中の図でラットの胆嚢についての指摘ありました。この話、お恥ずかしいのですが、小林先生が執筆して裳華房から出版した「内分泌現象」という教科書に、三崎時代にたくさんの図を描いて提供していたのですが、体内の内分泌腺を描いたラットの図に、胆嚢を描き込んでしまいました。ラットにはないのです。これは言い訳になりますが、Turnerの教科書にあるヒトの内分泌器官の図を見て、それをラットに無意識に置き換えたためです。ずいぶんとからかわれました。改定した時に直してあります。

二人の指摘を受けて書き直した論文はもう一度、小林先生に見てもらいました。ぶしつけにもせかすようなメモが書き込んでありました。日本比較内分泌学会を立ち上げているときで、「忙しくて忙しくて」という8月1日付の手紙が同封されて返送されてきました。指摘箇所を直して、多分研究室の誰かに英語を見てもらって、最終的にCell and Tissue Researchへ浅井正さんと共著で投稿しました。受領1975年8月11日でした。今度もFarnerから電顕の論文の時と同じようにエディトリアルコメントがあり、書き直したものを投稿したのが12月10日で受領が12月17日、アクセプトの知らせは1976年1月に入ってからでした。(論文9)もうこの時は日本へ帰っていました。

その他
実験ノートを見ると、これ以外にトリチウム標識のロイシンを脳内に注入して、オートラジオグラフィーでタンパク合成を追おうとしたようですが、写真乳液を切片にかけたという記述がありますが、結果については書かれていません。実験継続を諦めたようです。

アンギオテンシンと飲水行動
日米科学協力事業の最後の年(だったと思いますが)で、博士論文を2月15日に提出した後、1974年2月20日に出発して3月末まで、小林先生とワシントン大学動物学部のFarner教授の研究室へ出かけ、アンギオテンシンと飲水行動の実験を行うことになりました。アイデアはすべて小林先生のもので、筆者はそれを具体化するために実験系を組み、ミヤマシトドを使って実験を行いました。かなり短い期間でしたが、後程、論文一つを書き上げています。協力事業のお金での出張で、旅費、滞在費などすべて出してもらいました。初めての海外旅行でした。

小林先生は後から来るということで、筆者は一人でシアトル・タコマ国際空港に着きました。すでにFarnerの研究室に留学していた2年先輩の横山勝彦さんが空港まで迎えに来てくれる手はずになっていましたが、なかなか現れないので、一人でバスを探して大学へ向かい、動物学教室があるKincaid Hallにたどり着きました。到着時間を間違えと言って迎えから戻ってきた横山さんと、ユニバーシティーディストリクトにあるAmerican Pancake Houseへ食事に行きました。初めて食べたパンケーキ、蜂蜜やクランベリーソースなどかけ放題で感激しました。
宿泊場所は学生寮、最初は東側の多分HaggettかMcMahon Hallでした。小林先生が来てからは一緒になり西側のNE Campus Parkwayに面したLander-Terry Hallに移りました。学生が春休みで空いた部屋を使ったようです。ここの学生食堂で小林先生と一緒に食事もしました。
動物学部が入っている建物はKincaid Hallという名の建物で、5階北西側に研究室があり、6階の南西側には別に大きな部屋があって6基のChamber Roomが設置されていました。建物屋上にはAviaryもありました。

当時の南西側から見たKincaid Hall。手前は道路をまたいで医学部へいく橋

Farnerはずっと、White-crowned sparrow、和名はミヤマシトドという鳥を使っていました。学名はZonotrichia leucophrysで、北アメリカには確か4種以上の亜種がいて、ワシントン州からアラスカに渡るgambelii、ワシントン州周辺にとどまるpugetensis、カリフォルニア州あたりの留鳥であるnuttali、カリフォルニア州あたりで平地と山地の間を渡るorianthaがいて、同じ種で生態が違い、比較ができるという利点があるので対象種としたようです(多分)。滞在期間中に、州の東側に南北に連なるカスケード山脈に、北へ渡る前のgambeliiを捕獲しに研究室の人が行くのに連れて行ってもらいました。霞網を張って藪の中にいる鳥を石を投げて追い出して網に追い込んで捕獲するのです。捕獲した鳥は、屋上のAviaryに入れて、かご慣れをさせます。一頭一頭に足環をつけ、いつどこで捕獲したかなどを記録したシートが作成されていました。野生の鳥を使うやり方を学び、本郷に居たときに、捕獲した野生のスズメをすぐに個別かごに入れて死なせたことを思い出しました。

こうしてcaptivityに慣らした個体を個別かごに入れて、Chamber roomに移して実験に使います。アンギオテンシンの脳内投与による飲水行動の誘起ですが、脳にガイドカニューレを植え込み、そこを通してアンギオテンシンを注入するのです。適切な場所(視索前野)に植え込んだチューブの先があると、注入するとすぐに面白いように水飲みの容器に近づいて飲み始めるという劇的な効果でした。実際の実験は、まず初めに短日の8L16Dで飼育している鳥の一日の間の水飲み量を測りました。9時の点灯直後の1時間は飲水量は多いが、その後の7時間はほぼ一定になるので、この時間帯を実験実施時間帯と決めました。ガイドカニューレを植え込んで脳に固定し、アンギオテンシンを溶かした生理食塩水を注入する実験を行い、一連の実験が終ってからカニューレの先端を確定するために脳の組織標本を作製して調べるという実験に継ぐ実験の日々でした。次の図は、実験結果をグラフにした8枚のうちの1枚で、論文の図4のもととなっています。縦軸は水飲み口をついばんだ回数の積算で、30分間、観察しています。論文では、それぞれの結果をベースラインをY軸の0にそろえて描いています。

短い期間でともかく結果を得て、データをすべてコピーして日本に持ち帰り、データをまとめて、論文の執筆をして、最終的に、Wada、Kobayashi、Farnerの名で論文にしました。論文中の図はFarnerの方でトレースして作成しています。1974年12月10日に投稿して、すぐにアクセプトされ、掲載に至りました。投稿から掲載までとても短かったです。なんかずるい感じ。(論文7)

かをりが3月の末にシアトルに来て合流し、実験が終わった後、グレイハウンドのバスで西海岸を南下しました。何日ぐらいの旅行だったか、どことどこへ行ったのか、詳しいことは憶えていないのですが、最後はカルフォルニア大学に留学していた榎並淳平さんをバークレイに訪ねています。

研究以外のこと
小林先生を手伝って、日本語と英語の総説をいくつか書きました。一番の大物は、FarnerとKingが編集していたAvian Biologyという総節集のようなシリーズ本の第3巻に、小林先生と共著で一章を書いたものです。前にちょっと触れましたが、処女論文を投稿する際に添付した手紙の中で、執筆が遅れているがもうすぐだと書いたものです。

第3巻は主に鳥の生理学や内分泌学を扱った巻で、その第4章に「Neuroendocrinology in Birds」というタイトルで載っています。この章の別刷りが手元にありました。

Referencesを入れて60ページの原稿を書くのは大変でした。数えたら引用文献の数は213でした。これだけ大量の英語論文を読まなければなりません。
これ以外に、上衣細胞を含めた視床下部に関する英文と和文の総説、尿崩症ラットの総説(裳華房の遺伝)などがあります。いずれも小林先生への依頼ですが、代理で書いて共著で載せています。

ドイツ語の本の分担して翻訳しました。原著は新書版の緑の表紙の上下二冊の本ですが、コンパクトにまとまっていて、読みやすいものになっています。これを小林先生と新関滋也さんが監修者、その下に13人の編集協力者がいて、手分けして翻訳しました。翻訳したものは、同じ版型で、厚手の「カラー生物百科」として平凡社から出版されました。駒場以来のドイツ語だったので、それほど多くはなかった(と記憶)分担部分の翻訳に苦労した記憶があります。

三崎の人々
小林研究室の人たちは、実験所に寝泊まりをしているのですが、筆者だけは逗子からの通いでした。したがって、夜の世界の付き合いはほとんどありませんでしたが、それでも、いろいろな人たちと顔を合わせています。
農学部の水産学科が1階に一部屋持っていて、ここを拠点として研究する人がいて、いつも誰かが居ました。東京都立大学の矢崎育子さんも常駐していました。2階にはこの時は都立大学学長だった團 勝磨さんがしょっちゅう来ていました。また、海洋研の金谷晴夫さんがヒトデの神経から卵成熟因子を抽出するために来ていて、お茶のみ場で紅茶にアルコールを入れて飲んでいました。
小林先生関係では、日本女子大学の学生さんだった大島まやさんが、71年3月から72年2月まで在籍していました。卒業研空のためだったと思いますが、仕事のことはほどんど憶えていません。ただ、三浦海岸だったかに夏に開かれたお化け屋敷に、何人かと一緒に行った記憶があります。京都大学から71年4月から10月まで来ていた野津一子さん、憶えているのは、たまたまだったと思うのですが、構内にあったオートバイに乗って、実験所の前の狭い構内を爆走していた記憶があります。
外国からも小林先生のところで研究したいと言ってくる人もいました。J. C. Grimmer(1972年4月から1973年3月)は小林先生と関係があったかどうかわからないのですが、不思議なヒッピー風な、たしか地質の研究をしている人で、いるのかいないのかわからない人でした。Bo Fernholm(1972年10月から1973年11月)は、ヌタウナギの研究をしたいと言って、三崎にやって来たと思います。小網代湾に潜って産卵場所を確認したのだったと思います。それと、Peter Thomas(1972年12月から1973年5月)。
Boは奥さんのUllaと2人の娘さんの家族をつれてきていて、実験所構内の木造の標本室に住みました。Boとは家族ぐるみで付き合いました。お互いに母国語ではない英語での会話でしたが、もちろんスェーデン人の方が英語が流暢で、ずいぶんと教えてもらい、英会話の上達につながりました。Boは日本でオートバイを買って乗り回していました。帰国の際にはオートバイを持って帰る手続きのため横浜の税関にまでつきあいました。逗子の家にも来ました。

博士課程修了
博士論文発表会がいつ行われたのかはっきりと憶えていませんが、と書いたのちに、上に書いたBo Fernholm宛ての1974年2月18日付の手紙が、飲水行動のデータの束の間からでてきました。そこには先週の金曜日、すなわち2月15日に教授陣の前で発表会があったことが記されていました。こうして1974年3月29日の日付で博士課程を修了し、理学博士の学位を取得しました。論文題目は「鳥類における視床下部の脳下垂体支配機構」です。本来は博士論文として長い論文を執筆し、それをいくつかに分けて投稿し、パブリッシュするのでしょうが、既にパブリッシュした論文がいくつかあるので、手を抜いて(というつもりはなかったのですが)、パブリッシュされた論文の別刷りと投稿した論文のコピーを青色のリングファイルにまとめて、論文要旨をつけて提出しました。厚いので学位論文を保存してある棚に並べたときに目立つこと目立つこと。
1974年4月10日発行の東京大学理学部広報第6巻第4号に名前が載っています。

学術振興会特別研究員(PD)
卒業したからといってこの世界、すぐに研究のできる所に就職できるわけではなく、4月1日からは学術振興会のポスドク(特別研究員PD)に採用され、研究生として三崎の実験所に残ることになります。申請は1973年の6月頃に出しているはずです。いくら支給されたのか憶えていませんが、2022年現在は月額362000円支給です。奨学金の返還延滞願を出しています。この頃は教育職に20年勤務すると、返還が免除されることになっていました。
アメリカへ行くきっかけについて。このあたりのことは、日本比較内分泌学会が出している「比較内分泌学」という冊子に「なにもかも小林先生に教わった」というタイトルで書いています。お亡くなりになった後の追悼号(39巻148号2013年)に寄稿したものです。

「シアトルのワシントン大学近く、ワシントン湖からプジェットサウンドへ通じるいくつかの湖(というか川幅が広くなった箇所)の一つ、ユニオン湖のほとり、I-5(国道5号線)の高い陸橋の下に、Ivar’s Salmon Houseというレストランがある。1974年の2月下旬のある日の夕方、このレストランに小林先生と僕がいた。Gorbman教授が夕食に招待してくれたのである。サーモンステーキを食べながら、小林先生とゴーブマンは研究の話などをしたのだろうが、覚えていない。ただゴーブマンがカエルの仕事をしてくれるポスドクを探しているが、来ないかという話があった。この年の3月に、僕は大学院を卒業することになっていた。それなのになぜ、小林先生とシアトルにいるのだろうか(下の写真はGoogle Mapより取得したもので、左が2020年、右が20222年のものですが、高い看板などは全く変わっていません)。

 そのころ小林先生は、日米共同研究をワシントン大学のFarner教授との間で行っていて、日本学術振興会からお金をもらっていた。そ
れを使って、シアトルのファーナーのところで実験をするために来たのだ。どのようなやり取りでそうなったかは全く覚えていないが、野生のミヤマシトドを捕獲して飼育している実験室で、この鳥の水飲み行動に対する哺乳類由来のアンジオテンシンⅡの影響を調べるためである。
 当時のワシントン大学の動物学部(Departmentof Zoology、現在はBotanyと一緒になってDepartment of Biologyとなっている)はKincaid Hallという建物にあって、大きなEnvironment chambersがある5階にファーナーの研究室があり、3階にゴーブマンの研究室があった。この二人の比較内分泌学者をつないだのは僕なんだよと、小林先生は言っていた。小林先生は助教授の時にはよく海外に出て研究を行っていて、ゴーブマンがニューヨークのコロンビア大学にいるときにも(1957-60、複数回)、ファーナーがプルマンのワシントン州立大学にいるときにも(1960-1965、複数回)、RAなどとして研究留学をしていた。そんな経緯で二人を結びつけたのだろう。小林先生は常に外国の研究の状況を広く見聞きしていて、新しい技術や研究の種を見つけては取り入れていた。
 ともあれ、小林先生と僕はLander-Terry Hallという学生寮の一室に寝泊まりし、そこの学生食堂で食事を共に食べ、毎日、Kincaidに通って約20日間、論文になるだけのデータを集めるために実験を行った。ファーナーの研究室で僕が実験を行っている間、小林先生はときどき実験の進み具合をのぞきに来る以外は、たぶん5階と3階の間を行き来して、研究の情報交換を行っていた(のだと思う)。これが僕の初めての外国での研究生活だった。

 誰にでも、あの時こちらを選んだから今がある、というような人生の分岐点がいくつかある。この時、学術振興会のポスドクに採用が決まっていて、大学院を卒業したら当面は小林先生の研究室で研究を続けることになっていた。その後、某大学への就職の話もあったのだが、結局、この年の11月に、就職の話を断り、学振も中途で辞退して、ワシントン大学のゴーブマンのところにRAとしていくことにした。外国の研究室で研究をする道を選んだのは、そのような道を進んできた小林先生の後ろ姿を見ていたからだと思う。いつも外国にたくさん友達を持てと言っていたし、研究のためにはあらゆる犠牲を惜しむな、という態度だった。そして僕にとって、ワシントン大学で過ごした1年間は、その後の人生の大きな転換点となった。(後略)」

こうして、1974年11月からは、それまでとはガラリと変わる生活を送ることになるのですが、そのことは次の章に譲ることにします。渡米までの間の研究は、すでに上に書いたように電顕の論文の完成と、脳下垂体の免疫組織化学法による染色、それと、次にあるように、国際会議開催のお手伝いでした。

国際学会開催の手伝い
1974年10月に、静岡県日本平にある東レ研修所を借りて、第2回Brain-Endcorine Interaction -The Ventricular System in Neuroendocrine Mechanismを小林先生は石居さんと協力して開催することになります。このために、いろいろと手伝いました。開催場所を決めるために、小林先生、石居さん、それと筆者で北海道へ下見に行ったりしました。富良野にある東大演習林の宿舎に泊まった記憶があります。近くの(?)湖の周りを歩き、菱の実を拾いました。初めて見る菱の実、まるで忍者の鉄菱のようだと思いました。ともあれ、北海道は遠すぎるので、最終的に日本平に決まったのでした。開催のために、手伝いの大学院生等が、三崎から車を連ねて東名高速を日本平に向かったのをおぼえています。
会議の内容はほどんど憶えていませんが、エクスカーションで富士山の5合目までバスで行きました。その車内で、興に乗って「頭を雲の上に出し、、」の歌を英語に翻訳しながら歌った記憶があります。

プライベートライフ
逗子へ転居
油壷の臨海実験所まで通うために、1970年12月1日の日付で逗子市久木のアパート(逗子市久木3-1-5 和田荘7)に部屋を借りて相模大野から転居しました。大家さんは、北側の道(金沢逗子線)を少し先へ行った魚屋さんでした。領収書が残っていて、1か月22,000円でした。

かをりは東京の虎ノ門のNCRへ通うので、両者の中間ということで、逗子に決めたのだと思います。下の地図で逗子駅は右下にあり、左側の丸印がアパートの位置です。北側の道を丸印の少し先まで行って左に曲がって脇道へ入り、ぐるっと回ってアパートに至ります。建物に沿って回って階段を上った2階の端っこの部屋が7号室で、台所、風呂場、和室の6畳と4畳半の二部屋でした。かぐや姫の「神田川」が流行っていて、三畳一間ではないけれど、よくこの歌を唄っていました。したがって、12月から3月まではかをりと一緒に横須賀線でそれぞれ虎ノ門へ通勤、お茶の水へ通学しました。

1977年の国土地理院虚空写真より作成
かをり描く

当時の生活費をざっと書き出してみます。
収入:かをり:初任給手取り28,000円だったので30,000円くらい?、勝:奨学金博士課程になって13,000円より増えたはず。1978年には48,000円なので30,000円くらい?、勝:家庭教師アルバイト代
支出:家賃22,000円、水道代2ヵ月360円、プロパンガス代およそ1,250円、電気代791円、他にガソリン代、食費
71年1月9日に冷蔵庫44.800円を近くのハマヤ電気で、3月7日に白い食器戸棚28.500円を横浜高島屋で購入しています。

運転免許を取る
油壷まで通学するためには、電車の場合、逗子から京浜急行で金沢八景に行き、そこから三浦海岸へ、さらにバスで油壷まで行くルートになります。電車ではとても時間がかかるので、車での通学を考えました。そうするとまずは運転免許を取らなければなりません。逗子から久里浜まで横須賀線で行き、そこにある久里浜中央自動車学校に通って教習を受けました。1971年1月17日に入学しています。現在ではこの場所はイオン久里浜店になっていて、自動車学校はその建物の中にあり、屋上が教習コースになっていますが、当時はもちろんイオンの建物はなく、敷地内に平屋の教習所の建物と教習コースがあり、コースは狭いものでした。全ての領収書が残っており、入学時に18500円プラス教習券を2枚1600円、合計20100円を支払っています。領収書から購入した教習券を数えてみると66枚でした。人よりもだいぶ余分に買っていることがわかります。

多分筆者より若い教官はアンちゃん風で、なんとなく意地悪な感じで、なかなか次の過程に進めてもらえませんでした(それだけ下手だったというわけですが)。路上教習は別料金で8400円、その他学科試験料、仮免試験、本試験受験料などで、合計77900円かかっています。
上に書いたようにコースは狭く、直線部分でギアをトップに入れるまでスピードを上げるとすぐに曲がり角に至るので、あわただしいギア操作でした。バックが下手で(今でも)車庫入れは苦労しました。棒が立っていて、それがここに見えたらハンドルを切り始めて、などと教わりました。こうして仮免試験を受けて合格し、路上教習なのですが、余りよく覚えていません。当時は高速に乗る路上教習はありませんでした。

路上教習が終わり、法令、構造、安全運転知識の学科試験を受けてパスし、本試験にも合格して、人よりも長くかかったけれども3月中頃にはとにもかくにも免許証を取得して、晴れて運転できるようになりました。次は車です。

車を入手
トヨタパブリカを、かをりの友人市来可奈ちゃんの弟さんの働いている自動車修理工場みたいなところまで行って譲ってもらうことができました。実際に車を入手したのは、第一子誕生の後だったと思うのですが、免許取得に続けてここに書いておきます。

https://b-cles.jp/car/toyota_publica_2nd.htmlよりお借りしています。色は赤だったと、かをりは言っています。

場所がどこだか憶えていないのですが(目白駅の近くだった気がします)、都内某所に行き、工場の奥まったところに置いてある車を出すときに左側をこすってスタックしてしまい、弟さんを含めて何人かの人が慌てて飛んできて、よいしょと持ち上げてもらって外へ出ました。
そこから首都高に乗ったのですが、初めてのことで思ったところで車線変更して別のルートへ行くことができず、都心の首都高環状線を内回りだったか外回りだったか忘れましたが、一回りしてしまいました。今考えるとかなり恐ろしい運転経験でした。この時は千葉の稲毛のかをりの実家へ行きました。一晩か二晩泊って、千葉から逗子まで、かをりとあかねを乗せて帰りました。アパートには駐車場などないので、隣の逗子青果市場の空き地に乗り入れて市場の人にお願いして駐車させてもらい、それ以来そこに駐車させてもらうことができました。

逗子から油壷までは、葉山を通って長井経由でまっすぐですが、夏場は道が混んで大変でした。三浦半島西側の道で抜け道がないので大渋滞になるのです。それでも、車を手に入れたことで、油壷までの行き来が時間に拘束されずに便利になりました。

第一子誕生
すぐには子供は要らないと思い、生理の記録と星取表をつけていたのですが、思い通りにはいかず、妊娠。かをりは大きなおなかを抱えて虎ノ門まで通いました。逆位だとかで、変な格好をして正常な位置に戻す体操をしていました。
1971年10月13日にあかねが生まれました。妊娠最後のころは、千葉市登戸のかをりの実家にお世話になり、登戸から少し海岸方向に行ったところにある潮見が丘産婦人科で出産しました。この時は、第42回動物学会大会が10月7日から9日まで、東北大学の仙台キャンパスで開催されていて、これに参加して大会終了後、市川友行さんと東北を旅行していました。予定日はもっと先(最終月経日である1月27日から数えて40週目の11月3日)だったからです。この辺りのことを、後であかねが肺炎で入院した時に電話で知らせを聞いて12月7日に書き初めた日記のようなものに、かなり丁寧に書いてあるので、それをそのまま引用することにします(屋根裏にあった誰にも見せていないノートです)。

「午後、仕事をしているとかをりから電話がかかってきた。『お母さんがそばに居た方がいいって言うから今夜は千葉へ行く』というのである。パパはどきどきとしてきた。曖昧な返事をして電話を切ったがもっとよく聞けばよかったと思った。階段を登りながら窓から海を見ると風が強く波頭を白く崩している。わずか二か月足らずの命とか、死亡のカードなどというとんでもない考えが頭をよぎった。あかねがんばれ、これはお前の初めての、いや二度目の闘いなんだといやにリキンでしまう。後で聞けば気管が少しゼーゼーといって特に夜がひどいのだそうで、ビールス性の風邪らしいということだった。(欄外に追記あり:本当は肺炎になって重かった)。けれどもやはりこれから生きてゆくための、外界に対する初めてのお前だけによる闘いには違いない。おそらく風邪などは子供がちょっとした拍子になる最も軽い病気で心配するには足りないことなのかもしれないが、新米パパはやけにリキンで頑張れなどと心の中で叫ぶのだった。

 あかね、お前はこういうパパと、今は千葉にいるかをりママの間に生まれた子供です。今日その電話を聞いてから、お前のことをいろいろ書いておきたくなったので、今書き始めたところだ。どこから始めていいだろうか。お前は1971年(昭和46年)10月13日午後7時29分にお前のママのお腹からでてきました。パパはその同じ日の朝10時近くに上野駅に着いたのです。仙台に動物学会が開催されたのでそれに出て、その帰りに市川君と下北と十和田湖を回ってゆっくりと帰ってきたのです。というのもお前がこの世に現れる予定はもっと遅く11月3日だったからです。それで上野に着いてママが居る千葉へ向かったのです。その時はまだ夕べの夕方から陣痛が始まって始めはタカをくくっていたけれど、本当に痛くなってきたのでその夜遅く潮見が丘病院へ入院したということを知らないパパは、帰ったらかをり(ママのことをパパはこう呼ぶ、ママは勝と呼ぶ)が玄関へ飛び出してきて、お帰りなさいって言ってキスをしてくれるだろうと思っていたのです。それで小説とは違って格別胸さわぎもせずに玄関を開けると、ママのママが丁度良かったというのです。そこでパパは何が丁度いいのかを論理的に考えるヒマもなく、夕べ入院したという次の言葉を聞いたのでした。パパは泡を食って(これは慌てたときの表現で実際に石けんをかじった訳ではない)病院へ飛んで行きました。この病院は千葉の新しく埋め立てて造った大きな団地の傍らに立っている白いちょっときれいな(新しいから)病院です。病院へ行くとママの病室へ案内されましたが、ママは眠っていました。薬で眠っているのだそうです。少しでも余計な痛みをやわらげるためということです。そこは病室というのではなく急な入院だったために空いた病室がなく分娩室の隣の陣痛室と呼ばれる予備の部屋みたいなところでした。ママは目を覚ましても意識がもうろうとしているらしく虚ろな目で見上げたものでした。助産婦さんの話では出産は夕方になるらしくまだまだだということでした。それからおそらくママにはとても長い間歇的な痛みとの戦いだったろうし、お前はこの世に出るための準備におおわらわだったことでしょう。お前が生まれるまでに隣の分娩室では二回お産があり、パパは母親になるべき人のうめく声と医者のがんばれ、もう少し、リキンで、オギャーという声を聞く羽目になったのです。全くパパになるのも楽ではありません。
 やがて近づく出産に陣痛の間かくが短くなり痛みも強くなるらしくママはしきりにパパの髪の毛やヒゲをひっぱってパパにも痛みを共有させようとやさしい(?)心遣いを見せるのでした。やがて二度の陣痛促進剤が打たれママは分娩室に入りパパは廊下で落ち着かない時間を過ごすことになりました。長い時間(実際には二十~三十分)たちました。泣き声が聞こえたような気がしました。看護婦さんがあわただしく動き始めました。お前が生まれてきたのです。予定よりもずいぶんと早く、あわてて出てきたのかという感じですが、体重は二千九百グラム、身長は五十一センチあったから、ふつうというところだと思います。ママは大役が終わってぐっすりと眠っていました。
 お前を始めてみたのはもう少し後でした。ガラスごしに見たお前は真っ赤な顔をして眠っていました。最初のこの世への出現のための長い闘いを示すように、お前の頭は長くパパは初めてなのでこんなに長くていいのかと心配したものです。ともかくお前は真っ赤な顔をしてスヤスヤと眠っていたのです。
 その夜、ママはその部屋で眠り、パパは家へ帰って眠りました。そう、パパになったのです。これはあまりピンとくることではありません。おそらく世の男にとってそうなのでしょう。ママはお腹の中に入っているのを知っているし、お前がやたらに内側でけるのを感じているのだから早くからお前との関係をかくりつしています。けれどもパパはママのお腹を見て、ふーん、その中に居るのか、僕達の子がと、不可思議千万な気はするけれどパパになりつつあるということとは結び付きません。お前の顔を見てどこかおかしなところがないかと心配したのは初めてのパパのパパらしい心配りかもしれません。それとてもなんというか実感ということではないのです。翌日朝ごはんをすませて病院へいそぎます。ママは疲れたという顔で目の上がくぼんでいました。でも元気そうです。ともかくこれで一つ仕事が終わったのだとママはホッとし、パパもホッとしていたという気持ちは共通だったでしょう。パパはやさしいからそれからずっとママの傍についていたのです。」

この後、ノートにはかをりとのなれそめの話と、あかねのことが交互に書かれているので、あかねの部分だけを抜き出して書く事にします(写真は後から挿入しました)。

「病室は陣痛室から八号室の普通の二人部屋に移りました。お前はあいかわらずガラス越しに真っ赤な顔をしていて病院のスケジュール通りに授乳、入浴と看護婦さんが進めて、僕達はまるで介入することができず、何かとられたような感じです。三日目の午後にお前は小さな移動寝台に乗ってママの隣にきました。ママはそろそろ張ってきた乳房をお前に吸わせました。お前は吸盤のついた唇を上手に使ってママのおっぱいを吸うのです。ママの言うところによれば、お前がママのおっぱいを吸っているときが一番かわいいと言います。お前とママが確かにおっぱいと一緒に何かを通わせているのでしょう。カラー写真の何枚かはそのときのものでお前の最初の姿でもあります。そのときの写真にバラの花が写っているから八重ちゃん(かをりママの友達)がきたのは前日のことだったのでしょう。
 お前はしばらくそのベッドでよく眠って、おなかがすくとフンギャーフンギャーと泣き、おしめが濡れるとフンギャーフンギャーと泣いたものでした。パパはそのときになって泣き声がたまらなくせつなく胸に響き、おしめを取りかえてやることで一歩一歩確かにパパになっていったようです。しばらくは母乳だけをやっていたのだけれど足りないらしくやがてミルクと混合になりました。パパは動物学者のはしくれだからミルクより動物臭い母乳の方がいいと思っていたので絶対に母乳を出して飲ませるようにママに厳命していたのです。だからミルクを混ぜるのは不本意なのですが、ママの乳房の容量が小さいらしくいきおいよく出るらしいのだけれどお前は母乳だとすぐに満足するのか吸うのに疲れるのか眠ってそのくせすぐにお腹をすかせるのです。パパがへたくそにミルクをやっている写真が一枚あるでしょう。それでもミルクになるとパパもミルクをやることができるので、お前に飲ませているときママが写したものです。
 ママは病院のスケジュール通りに食事をし、段々とおきだし、診察を受け、歩くようになりました。でも大仕事の後だからママはおっかなビックリ歩き始め、しばらくはパパがついてやらなければならないのでした。お前が初めてママの傍らにきてママが授乳するとき、哺乳ビンだったと思うけれど、お前にミルクをやろうとして勢いよく出たミルクがお前の顔にかかってしまいました。ママはおろおろして、涙ぐんでしまいました。お前は何とも渋い顔をして、ああこれがおかあさんなのか、アタチ少し心配よといった様子でした。
 ママは十八日の月曜日にお前をつれて千葉のお家に帰ってきました。(記12月8日)

お前は千葉のお家に帰ってきて、お前は全くよい子でした。ママの母乳は十分でないらしく相変わらず乳首をくわえて眠ってしまいますが、お前はオシッコとウンチのたびにモゾモゾ、フンギャーとして、お尻を出してシーシーとやるとかわいくおしっこをしたり、ニョロニョロとウンチをしたりするのです。体重の増えも順調です。パパは朝からおしめの洗濯に追われ、ミルクをやり、子供って眠いもんだなーと思いました。ママは産後六週間のお休みがあります。パパはその間、千葉と油壷を行ったり来たりして、またお前の写真を大急ぎで焼いてカードを作りました。これは我ながらよくできたと思っています。(記12月20日)」

最後に書いてある誕生を知らせるカードが下のものです。結婚のお知らせのカードとは違ってガリ版印刷ですが、写真を貼っています。

少し間が空いて、次の文章は年が明けた1972年の一月に書かれています。その間、写真はたくさん撮りました。世の一般の例にもれず、第一子の写真はたくさんあるのです。カードの写真(生後10日)と前後しますが、次のものは生後7日の写真です。これらの白黒写真は、すべて自分で焼付をしています。

次のは生後9日目、すっかり赤ちゃんらしくなって、スヤスヤと寝ています。

次のは10月23日に撮影した写真、百面相の如く様々な表情の写真です。カード用の写真は、この日の写真の中から選びました。


「かをりは六週間の産休の後、再び勤めに出ました。僕も三崎です。あかねはそれで我々パパとママは、あかねをそのまま千葉へ預けることにしました。パパとママはそれからは土曜と日曜パパママになりました。千葉にはお前のおばあちゃんとママの妹の早苗さんが家庭保育をすでにしており、お前はその仲間入りをした訳です。パパとママだってお前とずっと一緒に居たいのですが、止む応得なかった訳で、解って下さい。
 さて今これを書いているのは年が変わって一九七二年です。お前は今パパの書いているわきのふとんの上で一所懸命あばれています。逗子のアパートです。我々はお正月の休みを少し多くとってお前と三人でこのアパートにすごそうとして千葉から連れてきました。一日にです。お前はもう二か月半になりとってもかわいいのです。まず身体的変化を書いてみましょう。お正月の二週間くらい前に千葉へ行ったとき気付いたのですが、まずお前のひとみが閉じたり開いたりしているということです。それまではずっと開いたままだったのです。それから見えるようになったらしいということをおばあちゃんから聞きました。ここへ来て確かに見えているようで、目で追います。しかも認知までできるようになったらしく、見て笑うということもします。それに両手の指を動かし始め、手をしきりに顔にもっていきます。又、言葉の前駆体のようなもの、ンガーとかアとか、もう少し母音といくらかの音を含んだものを発します。しかもおしゃべりのように発し、こちらそれに応じるとそれを続けます。お前はとても動くのが好きで、足をもって動かしてやるとよく笑って喜びます。だから手足を動かして体操をしてやるのです。」
次の写真は、1972年1月のものです。

日記のようなものはここで終わっていて、後は何も書かれていませんが、正月休みが終わったら再び千葉へ預けて、土日パパママになりました。それが大きく変わったのは、1972年4月からあかねを逗子の双葉保育園に預けることができてからで、三人そろって逗子で暮らせることになりました。零歳児保育です。保育料3100円、母の会会費200円でした。

それからは毎朝、あかねを抱っこして青果市場まで歩いていき、停めてある車の助手席に寝かせて載せ、青果市場の門を出てすぐ前の道を用水路に沿って北東に向かいます。双葉保育園の前まで車でアクセスするためには大回りしなければならないので、久木小学校の北側の道に車を止めて、あかねを抱っこして歩いて聖和学園の敷地の西側と北側の狭い道を通って双葉保育園の門にたどり着き、門を入って建物にたどり着き、預けました。その後は、車で油壷へ。夕方も急いで園に赴き、ほとんど最後かその前ぐらいに引き取って帰宅するという生活になりました。仕事が終わらないときは夜に実験所へ行くこともたびたびありました。
次の写真は、4月15日に逗子のアパートの部屋で撮影したものです。

ここからは、プライベートライフといっても筆者のというよりも、あかねを中心とした写真ばかりになります。仕方ないですね、実際にそうなのですから。次の6枚の写真は日付不明ですが、白い食器戸棚が写っているので多分4月。

こちらも日付不明ですが、多分4月の上とほぼ同じころだと思います。ごきげんな写真です。

5月1日、千葉の家の庭で日光浴をしている写真です。

ここからは急ぎ足で。8月1日、千葉の家の庭で水浴び、後は逗子のアパートの部屋での写真です。8月中頃、8月末、10月22日、10月28日、11月4日の写真です。最後の写真の大きなパンダのぬいぐるみ、あかねは大好きでした。

双葉保育園の小池妙子園長先生がユニークな方で、おしゃれをして週末にいそいそと出かける姿を何度も見かけました。あかねは1歳から2歳になると、迎えに行くといつも白い割烹着を着た長澤ちよさん(保母さんではなく多分補助の人)に抱っこされていました。またよく泣くので「なかねちゃん」といわれていました。
次の2枚の写真は日付は不明ですが、11月初めと書かれています。いっちょ前に新聞(神奈川県の広報誌)を読んでいるのは笑えます。

12月初めという日付が書いてある写真です。おすまししたり、笑ったり、泣いたり、大忙しです。

歩けるようになって、外で撮った写真が多くなりました。次の写真、日付は12月17日、順に、逗子の道、小坪への道、鎌倉浄光明寺、鎌倉光明寺。

再び室内の写真です。日付は12月20日。

日付がないので正確ではないのですが、梅の花から判断して1973年3月半ばに、相模大野のおばあちゃん(筆者の母)が来て、一緒に北鎌倉の東慶寺へ。最後の写真は、高見順のお墓です。

4月8日には、鎌倉長谷の光則寺へ。最初の写真は光則寺の山門へたどる横道です。

6月10日、朝比奈切通と写真の裏に書いてあります。右端の2枚のあかねさんの眼差し、イイナー(写真をクリックすると拡大されます)。

ここまでの写真は、いずれも土曜日か日曜日に撮影したものです。平日は保育園に預けているので、当然昼間の写真はありません。土日になるべく外へ出かけたのですね。次の写真は6月23日(土)円覚寺前と裏に書かれています。北鎌倉駅を降りて円覚寺の山門に至る道筋の垣根のところです。ただし、3枚目の写真は、服装からして、どうも違う日のもののようですが、載せておきます。

あかねさんの大好きだったパンダのぬいぐるみ、一緒に大きな段ボール箱に入ってよく遊んでいました。6月24日。

日付は書いていないが、前歯の生え方からこの頃の写真。湯上り美人。

夏になって、外に出る機会が多くなりました。アパートの階段を降りるあかねさん、久木三丁目の近所の橋の欄干に座ってぬいぐるみの熊さんとお話。

7月の何日かはわからないのですが、相模大野から母と弟が逗子のアパートを来訪しています。

1973年7月5日から8日にかけて、上高地へ行ったと書かれた写真があります。ちょうど結婚してから満4年目の時で、家族が一人増えての再訪です。この時は、屋根裏の部屋に泊まったということです。

帰りに碌山美術館に寄ったようです。

少し間が空いて、1974年の夏の写真ですが、日付は不明です。

どこかの湿原(尾瀬ではない)に行った時のもの。

保育園の運動会でしょうか。雨だったので屋内でやったようです。

こうして3歳のお誕生日を迎えました。元気で育ってよかった!とつくづく思います。この写真、上の運動会の写真と同じ日だったようです。アメリカへ行く直前だったので、運動会と誕生日に、千葉のおじいちゃんとおばあちゃんが来てくれたとのことです。

こうしてみてくると、三崎での大学院博士課程とPDの時の研究生活とプライベートライフ、かなり忙しい生活をしていたんですね。若いからできたんだと思います。


科学と生物学について考える一生物学者のあれこれ