フランスにいたよ(12)さよならフランス

ボルドーを9日12時8分のTGVで出発し、パリ郊外のシャルルドゴール空港駅に向かいます。シャルルドゴール空港駅着の予定時間は15時42分で、娘夫婦と子供たちはカンペールを発って15時半ごろ着の予定です。パリ・モンパルナス駅とボルド-間は、TGVで2時間半ほどですが、直接、シャルルドゴール空港駅に行く場合は、パリ市街の東側を大きく迂回するので、1時間ほど余計にかかります。
駅で会って、一緒に空港近くのホテルに移動して、夕食を外で食べて、泊まる手はずになっているのです。どちらも、8月10日の午後1時ごろに出発するエールフランスの便なのです。

ということで車中の人となりました。
市街地を出ると、すぐに畑の風景に代わります。風力発電の風車もたくさん見えます。これはほかの路線の車窓でも見かけました。風力発電がずいぶん普及しているんですね。
Wikipediaによると、フランスの風力発電はヨーロッパでは、ドイツ、スペイン、イギリス、イタリアに次いで、5番目の発電量だとか。2020年までに再生可能エネルギーによる発電量を23%にする計画だそうです。日本では再生可能エネルギーの発電量は12.2%で、このうち水力が9%、風力発電の全体に占める割合は現状で1%前後のようです(H26年度)。台風があるから、設置場所が限られるんでしょうね。

空港駅には30分ほど遅れて到着しました。パリに近づいてからどこかでなんかトラブルがあった様子でしたが、詳細は不明です。日本の新幹線に比べると、到着時間はかなりラフなようです。でもまあ、とにかく空港駅に着きました。
階段を上がると、娘夫婦がいました。向こうは時間通りだったので、だいぶ待ったらしいです。スミマセン、と言ってもこちらのミスではないので、、、。

空港駅を出て、ホテル循環のシャトルバスを待ちました。これがなかなか来ない、、。黒いバスに乗ったら、目的のホテルであるIbis Styles Paris Roissy CDGまで、結構ありました。地図で見るとホテルの位置は空港に近いはずなのに、いくつものホテルに寄りながらぐるっと回った気がします。ともかくチェックイン。

最近内装を改装したとかで、部屋はこんな感じでした(ホテルの写真をお借りしています)。

娘はホテルからちょっと足を延ばせば、いくつものレストランがあるから、そこで夕食をと考えていたようですが、なかなかうまく見つからない(結構遠い?)らしくて、結局ホテルのレストランで食べることになりました。

バイキングスタイルです。そうそう、ビールも飲みました。
デザートも、、。
いろいろと種類はありましたが、あんまりファンシーな食事ではなくて、フランス最後の食事としてはちょっと不満かも。

で、翌朝も同じレストランで朝食バイキング。

ホテルを同じようにシャトルバスで出発、空港について出国手続き。ターミナルも出発ロビーもすぐ近くだったので、搭乗ぎりぎりまで、一緒にいることができました。これでお別れ、さようなら。西と東、反対方向に飛行機は飛んでゆきます。

13時30分に飛行機は動き出し、その後順調に飛行して、8月11日の午前8時前に成田に降り立ちました。

7月17日の「海の日」に日本を出発してからほぼ4週間フランスにいて、8月11日の「山の日」に帰国、長い旅行でした。そんな日々を記録にと、長いつぶやきになってしまいましたが、これを書いている過程で、あらためてフランス・ブルターニュ地方の歴史や独自性、三角貿易のことなどより詳しく知ることができました。でも、まだまだ掘り下げが足りない気がするので、もっと勉強しなければ、と思います。

とりあえず、これでおしまい。


フランスにいたよ(11)ボルドーだ

ホテルの目の前はボルドー・サン・ジャン駅の駅舎で、ナントと同じように、ここでも駅の前にトラムの停留所がありました。ここのトラムはパンタグラフがなく、2本の線路の間にある溝?から電気を得る、地表集電方式を採用しています。ナントではトラムに散々お世話になったけれど、ボルドーでは使わないことにしました。

ホテルのロビーで地図をもらい、旧市街でおすすめの場所を教えてもらい出発です。駅から北へ歩くとすぐにガロンヌ川にぶつかります。ボルドーも内陸深く入った(河口から96km)ガロンヌ川の畔にできた港町で、昔から交通の要所だったのです。河畔には行かずにバリュダット通りを左に折れて、道沿いに進みました。

3ブロック目に目を引く建物がありました。正面のテラスや窓枠の飾りが凝っているのです。
案内板があり、説明が書かれていましたが、よくわかりませんでした。後で調べてみると、この建物は、シャトー・デスカス(Chateau Descas)という名で、ワイン商人だったJean Descas(1834-1895)という人が、1861年に病院だった建物を購入してワイン倉庫にしたものでした。外観もリフォームして、ブドウとバッカスの飾りをつけたのです。物流を考えて駅の近くに置き、商売は成功したそうです。その後、倉庫は移転し、建物は倉庫としては使われてなく、ナイトクラブになったり、ディスコになったりして、さらにごたごたがあって現在は空き家同然なのだそうです。商売は別の人が引き継いていますが、Descasの名前は残っています。次の写真は翌日撮った遠景です。素敵な建物だと思います。うまく利用できるようになるといいのですが、、。

歩いていると、建物の間に突然、門があったりします。ボルドーも旧市街は壁で囲まれていたんですね。これはPorte de la Monnaieです。旧市街はガロンヌ川が西へ蛇行した西岸に三日月のように張り付いているので、Crescent cityと呼ばれ、地区全体が世界遺産に登録されています(2007年)。またThe port of moonとも呼ばれています。

さらに進むと左手にサン・ミシェル聖堂(Basilique Saint-Michel)の塔が見えてきます。サン・クロワ通りの続きであるモネ通りから左に折れて、近づいてみました。下の写真は赤い扉の付いた南翼廊です。右の方に回ると、、。
西側のファサードです。手前は広場で、そこの高い鐘楼が立っています。
今は中に入らずに、広場に面したパン屋さん(La Boulangerie Saint Michel)で朝食用のパンを買って、どこかで食べることにしました。このお店、行き当たりばったりで入ったのですが、これを書きながら調べたら、結構評判の良いパン屋さんでした。川縁の細長い緑地帯に置かれたベンチで、買ったばかりのパンと丸いカヌレと牛乳で軽い朝食を食べました。おいしかったです。

再び道に戻ってピエール橋のたもとから旧市街を見たところです。遠くにさっきのサン・ミシェル聖堂の鐘楼の尖塔が見えます。正面の門はブルゴーニュ門です。ピエール橋はトラムの線路が通っていて、向こう岸とつながっています。
パンを食べているときも思ったのですが、ガロンヌ川にはほとんど河川敷がありません。川の水は岸の堤防のすぐ近くを流れています。日本のように荒れる川ではないのでしょうね。ここで突然、以前高校の同期会の時に聞いた講演で、フランスはほとんどどこへでも船で行ける、川あるいは運河でつながっているから、という言葉を思い出しました。

さらに川に沿ってリシュリー通りを行くとまた左手に門があります。ちょっと立派な門です。カイヨ門(Porte Cailhau)と言います。さらに進むと、広場が左手に開けてきます。ブルス広場です。広場に面した建物の一角に、世界遺産について説明する情報センターがあったので、中に入りました。この町の昔からの歴史が展示されていましたが、フランス語で、、。何となくわかりましたが。

両側に翼を広げたような建物が広場を囲み、広場の中央には憤水があります。広場の中から見ると、こんな感じです。
でも、ボルドーの観光スポットとしてよく紹介されている写真とはちょっと違います。実は道を一本またいで川の方に近づき、「水の鏡」と呼ばれる広場の向こう側から見ると、水の鏡に建物が写って素敵なのです。今はあまり水が溜まっていないので、ちょっと寂しいですが、こんな感じです。
一定時間ごとに、敷石の真ん中から霧が噴出するのです。子供たちは大喜び。

広場の北側の広い道を曲がってちょっと進むと、大きな道との交差点、コメディー広場に出ます。この角にあるのがボルドーの大劇場です。すごく大きな建物で、並んだ円柱やその上の庇の上の12体の彫像と言い、ギリシャ神殿のような威容を見せています。

この広場の南西隅に大きなオブジェがありました。赤く錆びたような平たい像ですが、両側から見るとそれぞれ女性の横顔になるのでした。
そういえば、街角には彫刻作品がいろいろと飾られていました。たとえばこんなもの、これと同じものを何か所かで見かけました。女性はもちろん、本物の人です。
コメディー広場から北に延びる広い道の先に、高い塔が立っています。カンコンス広場に面して立つジロンド派記念碑です。
塔の下にはいわくありげな像が並び、正面には雄鶏が鬨の声を上げていました。

ジロンド派というのは、フランス革命の時にできた政治党派の一つで、簡単に言うと革命を推進した勢力のうち、ジャコバン派が急進的であったのに対して、穏健な考えを持つ派で、ボルドーを中心としたジロンド県の出身者が多かったのでこの名があります。ただしジロンド派というのは後で歴史家が付けた名前です。そのため、この記念碑はジロンド県の県庁所在地であるボルドーに、革命100周年を記念して1881年に企画され、1894年から1902年に建てられました。なんで雄鶏なのか、よくわかりませんでしたが、どうやらこれが答えかも

再びコメディー広場の方に戻って、Eglise Notre-Dameを通って、Grand Hommeショッピングセンターの前を通り、ガンベッタ広場に面したPort Dijeauxにたどり着きました。

次はサンタンドレ大聖堂(Cathedrale Saint-Andre)に向かいます。途中の通りで、店先にチョコを撹拌する機械を置いたチョコ専門店がありました。

買いたい誘惑にかられましたが、古市憲寿さんではないので我慢しました。さらに進むと向こうに二本の尖塔が見えてきました。サンタンドレ大聖堂の入り口は北翼廊にあり、この翼廊の両側に二本の尖塔があり、バラ窓のあるFacadeになっています。

中に入ると東側に内陣があり、西側にパイプオルガンが据えられています。誰かが演奏していました。修復のプロジェクトが進行中のようです。
鐘楼は大聖堂の東に別棟で建てられています。次の遠景写真の一番右側に見えるのが鐘楼です。このカテドラルはちょっと変わった作りになっていて(例えばナントの大聖堂やパリのノートルダム大聖堂は西側にFacadeがある)、南側の翼廊にも立派なFacadeがあるのがわかります。

もう2時近く、お腹が空いたので、すぐ近くの一角にあるCafeに入りました。入るといっても建物内ではなく、外のテーブルです。ちょうどおばあさんが一人で食べているすぐ前のテーブルに座ったので、連れ合いは彼女が食べているのが気になって、小粒のジャガイモがたくさんついたカモ肉を注文しました。小生は前菜(コロッケのようなもの)とサーモンでした。

食べ終わった後、Cafeの前で一枚撮りました。

お腹が満ちたので、美術の鑑賞をと思って、市庁舎(昔はロアン宮殿だった)の庭に面したボルドー美術館に行きました。しかし、何たることか休館日でした。ショック。庭の西側の飾りで満足するしかないのでした。

美術館の前の道を南にぶらぶら歩いて行くと、左側に変わった建物が見えてきました。大きな壺のようなものが階段の上に見えます。いくつも並んでいるようです。いったい、何の建物でしょう。
今、これを書きながら調べてみたら、階段のある建物は、ボルドー市裁判所複合施設(le Palais de justicede Bordeaux)で、設計者はイギリスのRichard Rogers、丸っこいのは葡萄酒の樽をイメージしたとか。後はガラス張りが多用されていて、裁判の透明性を表しているのだそうです。この人はパリのポンピドーセンターの設計者として有名な人です。酒樽の一つ一つが法廷になっているようです。

階段の向こうに写っているのはChateau de Haという城塞の名残で、今はこの中に国立司法学院(日本の司法研修所のような役割)が建てられています。法律に関係深い地区だからでしょうか、上の写真の左に見える並木の根元の舗道には、細長い金属板が打ち付けられていて、板には文字が打ち抜かれ、点字もあります。一番出だしの板ははこんな感じです。
どこかで見た文章です。連れ合いが歩いてきた若い女性に聞いたら、人権宣言だということでした。文章を調べたら、ラファイエットによる1789年のフランス人権宣言(正しくは、人間と市民の権利の宣言)ではなく、国際連合が1948年に採択した世界人権宣言(正しくは、人権に関する世界宣言)でした。

上の写真の文は、世界人権宣言第一条で、以下の通りです。

Tous les êtres humains naissent libres et égaux en dignité et en droits. Ils sont doués de raison et de conscience et doivent agir les uns envers les autres dans un esprit de fraternité.

すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。(外務省訳)(宣言は全部で30条あるのに、ネット上の外務省仮訳は13条までとなっている。どうして?)

今この第一条を改めて読んでみると、世界で起こっている出来事と宣言の乖離を強く感じますね。

サンタンドレ大聖堂を遠く左に見ながら、東に進んでMusee d’Aquitaineに行き当たったので、ここに入ることにしました。ここはボルドーを含むアキテーヌ地方の歴史や人類学、民俗などを展示してある歴史博物館です。ラスコーもこの地域圏に含まれるので、ラスコー洞窟の壁画のレプリカがありました。
ローマ時代の柱の一部と床のモザイク模様でしょうか。

ボルドー出身の著名人の中に、モンテーニュとモンテスキューがいます。この彫像は確かモンテスキューですね。目尻が下がったところが特徴的です。

ナントの博物館と同じように、奴隷貿易のことがスペースを割いて展示してありました。ボルドーはナントの後、造船で栄えましたが、同じようなことをしていたのですね。

博物館からヴィクトル・ユーゴー広場を通って少し行くと、少し引っ込んだところに高い鐘楼があります。グロス・クロッシェ(Grosse Cloche)と言い、13世紀の街砦門中で残っている唯一の史跡だそうです。

最後に、ヴィクトワール広場に出ました。かなり大きな広場です。向こうに見えるのはボルドー大学ヴィクトワールキャンパスです。
広場には大きなアキテーヌ門があります。
門の手前にオベリスクが立っていて、その下部には彫刻が施された銘板が据えられているのですが、意味はわかりませんでした。フランス語で書かれたページを見つけましたが、フランス語ばっかりじゃー、、。
もう6時を回ったので、この日はホテルに帰りました。

翌日9日のお昼過ぎにボルドーを出るTGVでパリに向かいます。少し時間があるので、昨日、時間の関係で前を通り過ぎただけだったサン・ミシェル聖堂へ行きました。出がけにフロントの人から今日は雨が降るよと言われました。

聖堂は14世紀から16世紀に建てられたゴシック建築です。でもステンドグラスはとてもモダンなものでした。

聖堂の西側にあるメナール広場の真ん中に立つのは、高さ114.6mの鐘楼です。ここには入場料を払えば登ることができます。頑張って上ることにしました。入り口を入るとまず地下に降りる階段があって、降りると地下聖堂があります。およそ60体のミイラが置かれているとか。気を取り直して、狭いらせん階段を昇ります。途中に飾りの彫刻が。
鐘がたくさん並んだ空間、どうやら電動のようです。昔はここまで上がって手で綱を引いて、鳴らしたんだろうなーと思いました。
地上から47mの一番上まで登って上を見上げると、鐘楼の尖塔はこんな風に見えます。
ホテルのフロントの人が言ったことが当たって、上まで登った時は雨で見通しが悪くなり、ちょっと残念でした。雨を避けつつカメラで東側を撮影、聖堂の身廊・内陣と南北の翼廊を覆う屋根がきれいな十字を作っているのがわかります。
北の方向に見えるのは、ガロンヌ川に架かるピエール橋です。
北西の方向に遠くにサンタンドレ大聖堂が見えます。旧市街の向こう側には建物の色が異なる新市街を遠望できます。
旧市街は瓦や建物がよく保存されているようです。

再びらせん階段を下りて、地上に降り立ちました。雨は上がっていました。一番上にいたときが最も悪い天気だったようです。

建物に挟まれた狭い道を通って、ホテルへ戻る途中にボルドーでの最後の訪問場所であるEglise Saite-Croixを覗きました。11世紀にたてられたロマネスク様式の、比較的こじんまりした教会で、元は修道院だったようです。正面Facadeの飾りがとてもいいので好きだという、イギリス人の口コミ(このページには写真がたくさん載っています)がありました。確かに凝った入り口です。

もう11時半です。ホテルに戻ってボルドー駅へ向かうことにします。さて、ボルドーと言えばワインですが、今回はワイン関係の施設、名所はどこも行きませんでした。でも旧市街の主だったところは、ほぼ行った気がします。ボルドーはナントと違って町が大きいことと南にあること、観光客が多いことと相まってか、ナントと比べて何となくざわついた印象でした。郊外に出れば印象も変わったのでしょうが、丸一日半と短い時間だったので仕方がありません。

さあ、これで12時8分のTGVで、ボルドーからパリシャルルドゴール空港へ向かいます。


フランスにいたよ(10)ナントの続き

ナントは、これまでもフランスで最も緑の多い都市に選ばれたり、最も暮らしやすい都市に選ばれたりしています。確かに、何となく好感の持てる町です。このナントに生まれた有名人に、ジュール・ヴェルヌがいます。今日はまず、ここに行くことにします。ホテルのフロントでいろいろな情報を仕入れ、地図をもらって出発です。ナント駅の前にトラム(路面電車)の停留所があります。一時はすたれたトラムでしたが、1985年に復活、これはフランスでの復活第1号だそうです。

路線は3系統あり、そのうちのフランソワ・ミッテラン行きのトラムに乗り、Gare Maritimeという停留所で降りて、あとはロワーヌ川沿いに歩きます。川向こうのナント島に大きな黄色く塗られた起重機が見えます。あれが絵文字の「T」ですね。歩くのに一生懸命で写真を取らなかった!残念。

どんどん歩いてゆくけどそれらしい建物なし。地図ではこのあたりのはずだけど。で、道行く人に聞いてみると、通り過ぎてしまった階段を上った丘の上にあるとのこと。右側にある階段に気が付きませんでした。階段の上には白い彫像があります。本当はもっとずっと手前にある、右へ逸れて上る坂道を行くと建物の前に出たのですが、見逃したようです。
この階段の上の右側の建物が、博物館でした。傾斜地に立っているので、一階から下に降りていくような展示になっています。建物の全景写真を博物館のページ(上記リンク)からお借りして載せておきます。
© Patrick Garçon – Nantes Métropole

この建物は彼の生家そのものではないのですが(生家はもっと市の中心に近いイル・フェドー島、中洲だったのが現在は埋め立てられて陸続きになっています)、ロワール川を見下ろす丘の上にあるので、少年時代を過ごしてその冒険心と想像力の源泉となった当時のナントの雰囲気を伝えてくれているように感じます。実は先ほど見逃した坂道の途中、ロワール川を見下ろすことができる展望台のようなところに、ヴェルヌ少年と六分儀を持ったネモ船長の銅像があったのですが、階段を使ったので見逃してしまいました。

建物の入り口と横にあるテラスへ続く扉の写真、それと入り口から入った受付の後ろにかかっていた、Verneの肖像写真です。
展示室には彼のイマジネーションの源泉となった雑多なものや、彼の想像力が生み出した潜水艦や飛行艇などの模型が飾られていました。もちろん書架には、豪華装丁の初版本が並んでいました。

窓からはロワール川と中洲のナント島の西の端が見えます。ここにも黄色くないけれど起重機が据えられていますね。一番下の階には、ゲーム板が真ん中にドーンと据えられていて、プレイルームのようになっています。そのほかに映像を見せる部屋がいくつかありました。壁にあったシルエットに惹かれました(改変しています)。上段左が六分儀を覗いているネモ船長ですね。
残念なことに説明文は全部フランス語なので、内容の詳細はわかりませんでした。後で上記のWebPageを知るのですが、これには英語版があり、これを事前に読んでおけば、いろいろと情報が得られ、また違った感想になったのに、と悔やまれます。

それでも1時間45分ほど居て、外に出ました。建物の前の並木道の向こうに教会が見えるのでそちらの方に歩き出しました。教会は聖アンナ教会(Eglise Sainte-Anne)でした。先ほど階段の上にあった白い彫像は、この聖アンナだったのです。聖アンナはマリア(聖母)のお母さんです。でも教会は締まっていました。
教会の前を右折して、街の中心に戻ることに。川沿いの道に戻り、30分ほどぶらぶら歩いてロワイヤル広場(Place Royale)に着きました。ほぼ中央に銅像を伴った噴水があるのですが、その手前に人工の白い砂浜とヤシの木が立っていました。ヤシの木には白いヒト(もちろん人形)が登っています。一時的なものなのでしょう、ちょっとした遊び心のようです。砂浜に置かれたデッキチェアーでくつろいでいる人がいました。

広場の向こうに見える尖塔は、Basilique Saint-Nicholasのものです。Basiqueは聖堂と訳すようで、この教会は聖ニコラス聖堂となります。ここで混乱、BsilliqueとEgliseとどう違うの?

調べてみると、Egliseはいわゆるミサなどが行われ人々が集まる教会のこと、Basiliqueは上に書いたように聖堂、これはローマ法王の特別な指定を受けた教会のことだそうです。さらにCathedralは大聖堂と訳し、いくつかの教区を集めた大教区の中心となる教会で、教皇座があるものを呼びます。

Chapelleにはいろいろあってややこしいのですが、聖堂内の翼廊などにある副次的な礼拝空間を呼ぶことが多いようです。ただし、ブルターニュでは独立した建物をChapelleと呼んでいたと思うのですが、これは教会の所有ではない、例えば村のような共同体が建てたものを呼ぶようです。したがって、学校やホテルにある礼拝のための空間もChapelleと呼ばれるのです。うーん、ややこしい。

元に戻って、聖ニコラス聖堂はネオゴシックの建物で、19世紀の中ごろに建てられました。
教会とみれば中に入ります。正面に祭壇、振り返ればパイプオルガンです。

朝からここまで、歩いて喉が渇き、お腹が空いたので、食事するところを探すことに。店頭のメニュー見ていたら、うまく年長のボーイさんに席に導かれてしまいました。赤い傘の下なので、すべてが赤く見えます。店の名前はCafe du Commerseでコメルス広場(Place de Commerce)にあります。
まずはビールを注文してのどを潤しました。おいしい!

食事は小生はビーフ、連れ合いはマトンを注文、美味しく頂きました。

喉の渇きがなくなり、お腹も満ちたので、再び戦闘開始。ここからすぐ先にあるパッサージュ・ポムレ( Passage Pommeraye)を訪ねます。ここは1843年にできたアーケードで、ガラス屋根で覆われ、さらに装飾がとても凝っています。ロワイヤル広場から伸びるフォス通りとサンテュイユ通りの高低差を利用した三層構造で、およそ100mほどの長さでしょうか、フォス通り側の入り口はこんな感じです。人が住んでいるので夜中は柵の門が締まります。
中に入るとこんな感じです。
両側の回廊に並ぶ明かりの下に並ぶ少年たちはみな、異なるポーズをしています。中にはこんな剽軽なものも、、。
壁面の明かりのアームには凝った装飾が、、。

階段の手すりの飾りです。

この胸像は設計者のポムレさん?両側のお店はいろいろありましたが、ウィンドウショッピングのみで、サンテュイユ通り側で外に出ました。再びロワイヤル広場を通って聖ニコラス聖堂を横目で見て、古い建物の横を通って行くと、時計台がある聖クロア教会(Eglise Sainte-Croix)にたどり着きました。

途中にあった古い建物は15世紀のものでMaison des Apothicaires(あるいはPlace du ChangeにあるのでMaison du Change)という歴史的建造物(1922)で、訳すと「薬剤師の家」なので、昔の薬屋さんだったのだろうと思います聖(現在はレストラン)。二階の柱の上部にある人物の彫刻がとてもユニークです。

聖クロア教会の遠景はこんな感じ。
入り口に近づくと、横の壁にはMerciと書いてあるから多分寄進の銘板でしょう、多数打ち付けてありました。
1669年に建設が始まり、完成したのは1860年とありました。ちなみにジュール・ヴェルヌはこの教会で洗礼を受けたそうです。

教会の横の庭にはカワセミの大きな絵が飾られていました。そのまま庭を進むと建物がありPassageになっていて、アートイベントが開かれていました。
アートイベントをちょっと見学して、いよいよナント大聖堂へ向かいます。正式名称はCathedrale Saint-Pierre-est-Saint-Paul de Nantesです。長いので以後、ナント大聖堂と略記します。

現在のナント大聖堂は、ブルターニュ大公城のすぐ北側にすでにあったロマネスク様式のCathedraleが手狭になったので、1434年からゴシック様式の建築物として建て変えられ始め、457年かかって、1891年に完成を見ました。聖クロア教会よりも早く建て始めたけれど完成は30年ほど後なので、結構長い間、並行して建設されていたんですね。正面のfacadeは立派ですね。

中に入るとゴシック特有の高い天井と、白い柱が身廊(nave、椅子が並んでいるところ)の両側に整然と並んでいるのに圧倒されます。

身廊の両側には側廊(aisle)があって、側廊の壁側の柱の間の区画はChapelleとなっています。どれにも名前があって、絵や祭壇や彫像などがあります。身廊の奥には一段高くなった聖歌隊席(choir)があり、さらにその奥に祭壇が置かれた内陣(chancel)があります。次の写真は身廊の前の方から聖歌隊席と内陣を撮ったもので、一番奥に見える黒っぽいのが祭壇です。
聖歌隊席と内陣の周囲には周歩廊があり、ここにもChapelleがあり、絵などの飾りつけがありました。その中でちょっと気になった絵、”naive-primitive” paintingのAlain Thomasというナント生まれの画家の2004年の作品でした。キリスト生誕の絵ですね。

身廊と聖歌隊席の間の通路は左右に張り出して、南北の翼廊(transept)となっています。南の翼廊には見事な大理石の彫像で飾られた墓碑が置かれています。上面に横たわる男女は、ブルターニュ公フランソワ二世とその妻のマルグリット・ド・フォアで、四隅には四つの枢要徳(cardinal virtues)である知恵(思慮)、勇気、節制、正義を表す寓意像が置かれています。
墓碑の四面には、使徒と修道士の彫刻が施されています。この作品は、フランソワ二世とマルグリットの娘であるアンヌ・ド・ブルターニュによって1502-1507年につくられたもので、ルネッサンス期の彫刻の最高傑作と言われています。アンヌ・ド・ブルターニュはブルターニュ地方とフランスを結びつける重要な役割を果たすのですが、詳しいことは省略します。

一つ余計なことを。4つの寓意像はそれぞれ象徴的なものを手に持っています。北西隅の知恵の像は、左手に持った鏡を見つめ、右手にはすべてを測るコンパスを持ち、足元に蛇がとぐろを巻いているのですが、この女性の頭の後ろのフードの中には老人の顔が隠れています。何を意味するんでしょうねー。

聖歌隊席の南側の横に下へ降りる階段があり、人が登ってくるのが見えました。階段を囲う柵に掲示があり「Acces aux cryptes」とあります。地下聖堂への入り口はあちらと書いてあります。今日は土曜日(日曜日も)なので、地下聖堂に入れるのです。南翼廊の戸口からいったん外に出て、ぐるっと庭を横切って回ると入口がありました。内陣の下にかなり大きな地下空間があるのです。

この大聖堂の歴史が書かれたパネルがあり、ロマネスク建築物の名残らしい円柱もありました。
内陣の下あたりは、収蔵品を納めた展示室のようになっていて、いろいろなものが展示されていました。写真は法衣(帽子)や錫と17世紀作の聖母子像です。

一方通行なので、さっきの見た階段を昇って再び大聖堂の中に戻ります。もう一度、側廊をざっと見ました。ナント大聖堂は1944ねに空襲、さらに1972年に火災が起こり、大きなダメージを受けました。下の写真はチャペルの一つにかけられていた1972年の火災の絵です。
火災後、文化省と歴史建造物決定機関は修復を決め、1985年に完成します。今見ている内部はそのため、新しくて白いのですね。

大聖堂を後にして、大聖堂の敷地に沿ってぐるっと回り、サン・ピエール広場に出ます。広場といってもかなり長い長方形で、両側に木が植えられていて、幅広の街路のような感じです。広場の先にマレシャル・フォス広場があり、ここにルイ16世の彫像の載った高いポールが立っていて、さらにその向こう側は同じような長方形のサンタンドレ広場になっています。

マレシャル・フォス広場を左に曲がると、ナント大聖堂のすぐ裏にあたる場所に、サン・ピエール門と呼ばれるくぐり道のある建物があります。この建物の路面に近い大きな石の部分が3世紀の遺構で、その上の小さな石を積んだ部分が15世紀の遺構だそうです。旧市街は壁で囲われていて、ここが何か所かあった門の一つだということです。
 

その手前に下の写真のような地下道がありました。これはさっき潜った大聖堂の地下聖堂につながっているような感じです。いずれにしても、この地点はナントという街にとって重要な要所だったのでしょう。再びサンピエール広場に戻り、まっすぐ続く広場を通り、広場を出るときにアンヌ・ド・ブルターニュの彫像と、若い兵士の群像の脇を通り、正面にLUの塔を見ながら、ホテルに戻りました。。

翌日はボルドーへ移動する日なのですが、出発する時刻は午後4時25分なので、それまでゆったりと時間があり、まだナント探検ができそうです。ホテルの屋上のテラスで、近くのパン屋さんで買ってきたパンを食べ、トラムに乗って昨日降りた停留所の一つ前(Chantiers Navals)で降りて、橋を渡ってナント島に向かいました。そう、見落としていた大きな象を見るために。

そこはLes Machines de l’Ile、島の機械たちと訳すのでしょうか、機械仕掛けの象で有名な遊園地です。橋を渡って右の方を見るとメリーゴーラウンドが見えるので、右に折れて歩いてゆくとその先のさらに大きな三階建てのメリーゴーラウンドが見え、その前に象が止まっていました。ここが乗り場になっているのです。メリーゴーラウンドは海の世界を題材にした乗り物満載のものらしいのですが、見上げるだけで入りませんでした。

やがて象は乗客を乗せて動き出しました。途中で鼻から水を吹き出します。大人も子供も大喜びで、周りを駆け巡ったりしてついて行きます。その雄姿をご覧ください。
まつ毛も動くんです、もちろん耳も。歩いているように足が動きますが、もちろん動力は別にあります。動いているところはインスタグラムで公開しています(#動くゾウ)。

象はお客を乗せて構内をぐるっと回って、二つの建物の手前で乗客を交代します。次の半周は、建物の間にあるガラス天井のアーケードの下を通り、Ateliers et chantiers de Nantesの建物の前を通って元の乗降場にたどり着きます。

この建物がファクトリーとギャラリーで、右側の建物ではいろいろな動物が制作されていて、テラスからその工程を見学でき、左側の建物内にはクモだとか芋虫のマシンがあって、乗ることができます。右側の建物から伸びた木のようなものは、製作中のArbre de heronsで、将来は機械のサギが営巣する木になるのです。この建物に入るのは有料ですが、とても混んでいて列ができているので、入場はあきらめました。

この島はもともと造船場のドックがあったところで、その容れ物に、ジュール・ヴェルヌのイメージによる生き物を、レオナルド・ダ・ビンチの機械の世界で実現して詰め込んだ世界になっているのです。下の写真はパンフレットの表紙です。

再びトラムに乗って駅まで戻り、植物園を訪ねることにしました。駅のすぐ前なので、東京でいえば新宿御苑といった感じでしょうか。なんとなく雰囲気も似ています。芝生の広場があり、池があり、温室があり、、。道の途中にあるのは、大きなベンチです。ちょっとした遊び心でしょうか。他にも、、
そうそうジューヌ・ヴェルヌの胸像とその下で彼の本を読む少年少女の像がありました。
名残惜しいけれど、ナントともお別れです。もういちどホテル近くの街をぶらつき、ホテルで荷物を引き取って列車に乗り込みました。列車は夜9時すぎにボルドーに着きました。ホテルは駅の目の前でした。


フランスにいたよ(9)ナントへ

娘夫婦とその子供たちは、ラクトディ―にずっといて、8月10日にカンペールを出発して、パリ郊外のシャルルドゴール空港近くのホテルに泊まって翌日午前の飛行機でアメリカに帰国するという計画でした。我々もそれに合わせて同じ11日の午前の便で日本に帰国するので、10日に合流して同じホテルに泊まることにしていました。

ただ、我々は最後の何日かを使って、少し旅行をしようと決めていました。最初は東のストラスブルグの方へ行こうかと言っていたのですが、日程がきつそうなので、南へ下がってナントとボルドーを訪ねてからパリの戻ることにしました。だってナントといえば「ナントの勅令」です。世界史でナントの勅令とアンリ・カトル(アンリ4世)の名前をやみくもに覚えた記憶があるでしょう? それにナントってなんとなく気になる名前の町ですものね。

でもって8月5日にカンペールからナントへ出る列車の予約をしました。SNCFのスマホアプリを使えば、今やEチケットを簡単に購入することができます。面白いことに同じ目的地に行くのでも、列車の出発時間帯によって料金が異なるのです。日本とだいぶ違いますね。なるべき安い便を選んで予約しました。

8月4日の夕食がラクトディ―での最後の夕食です。お決まりのシャンパンで乾杯。アペタイザーはサラミとイチジクをクリームチーズで包んだ団子。午後9時半でこの明るさです。
メインはテナガエビが山盛りです。あっという間に殻の山になりました。
お決まりのチーズにデザート。
こうしてラクトディ―最後の夜は過ぎていきました。

翌日の8月5日、朝早く起きて朝食後、9時にラクトディ―の家を出発、車でカンペールの駅まで送ってもらって、本当にさようなら。時刻表の電光掲示板を確認してホームへ。今度は日本で会おうと言って車中の人となりました。

乗ること2時間半、途中で娘が作ってくれたサンドイッチを食べているうちにナントに着きました。ナントに着いてから乗っていた列車を撮影しました。キャリーバッグを持っている男性は車掌さんです。カンペールからVannesを通ってRedonまでは高速で、そこらSavenayまでは普通の列車並み、そこからNantesまでは再び高速で走行したようです。

スーツケースを持っての移動なので、なるべく駅のすぐそばにホテルを探して予約をしました。この予約にはBookingComがたいそう役に立ちました。ナントでのホテルはHotel Astoria、ヨーロッパのどこかで泊まった記憶があるので選びました。ナント駅を降りて路面電車に沿って西へ歩いてすぐのところです。
後で気が付くのですが、両側もホテルで、この通りには駅に近いためでしょう、ホテルが建ち並んでいました。写真の通り、ホテルの間口はたいへん狭く、京の町家と同じくウナギの寝床です。ドアを入った狭い廊下の脇にフロントがあります。

まだチェックインできないので、ともかく荷物を預けて町の地図をもらい、いくつかの情報をもらい、歩いてすぐのお城に向かうことにしました。

お城というのはブルターニュ大公城です。ナントは昔はブルターニュ地方に含まれていたのが、込み入った歴史を経て現在は、ブルターニュとは別のロワール・アトランティック県に属しています。それはともかくナントもまた、ロワール川の川筋に発達した町で、ナントまで大型の船が入ってくることができます。小さいですが砲台を備えた軍艦が停泊していました。
路面電車に沿って歩いてゆくと、右側にお濠が見えてきます。位置関係を示すためにGoogleEarthで1200m上空から俯瞰した景色を載せておきます。

お濠に沿ってぐるりと回ると、白い瀟洒なお城が見え、さらに進むと入口(城門)があり、城内へ入るだけなら無料です。多くの人がお堀端の芝生で日向ぼっこをしていました。
門を入る前に、道の向かいにあったツーリストインフォメーションに立ち寄ってみました。壁に貼ってあった、ナントの絵文字に惹かれました。後でわかるのですが、それぞれの文字がナントの名所になっているんですね。

門を入ると広場になっていて、今くぐってきたのがメインの建物のようで、白亜のお城という感じです。現在はここは歴史博物館になっています。歴史博物館に入ることにしました。博物館は有料です。建物のすぐ前にしゃれた飾りの覆いのある井戸がありました。
博物館の中に、ナントの旧市街、中世の街並みの模型がありました。右下がお城で、街は城壁で囲まれています。GoogleEarthの航空写真と比べてみると、今でも旧市街の区画がはっきりとわかります。
博物館の展示はよくできていて、ナントがどのように発展してきたか展示されています。ナントの勅令が発布された部屋もありました。しかしアンリ・カトルの生涯もユグノー戦争の帰趨も複雑で、簡単には書けませんねー。ともかくカトリックとプロテスタントの宗教戦争を終わらせ、フランスの繁栄の礎を築いたことで、アンリ・カトルは高く評価されているようです。でも暗殺されちゃうんですね。その子のルイ13世が子供だけど跡を継ぎ、三銃士の世界になるんです。

展示の中で特に目を引かれたのは、ナントがアフリカから西インド諸島あるいはアメリカ南部への奴隷貿易の中心地だったということです。西インド諸島では砂糖、アメリカ南部では綿花のプランテーションのために労働力が必要で、ナントを出た船はアフリカ西海岸へ赴き、ラム酒や武器と物々交換した奴隷を積んで上記の地域へ行き、帰りは砂糖や綿を積んで戻るという、大西洋三角貿易の出発頂点だったわけです。西インド諸島でのプランテーション農場の様子や、奴隷に対する虐待などの生々しい展示がありました。負の歴史も目を背けない、という感じがしました。

城内を展示室にしているので、上がり降りが激しく体力を消耗。ところどころには昔の城の装飾?というものが飾られていました。

向かいの別館では、金に関する展示がありました。覗きましたが、詳しいことはパスします。本館の博物館入り口に横にある階段を上ると、城壁の上をぐるりとめぐることができます。

途中で駅の方見ると目につく塔が見えます。これ、NANTESの絵文字のAですね。歴史博物館の展示にもありましたが、ナントはフランスのビスケットの発祥の地で、ルフェーブル・ユーティル(LU)とビスキュイテリー・ナンテーズ(BN)が19世紀の半ばと後半にナントに工場を建てて生産を始めたそうです。1909年にLUの工場の一角に塔が作られ、工場の移転した後も、この塔はナントのシンボルとして市民に愛されているそうです。

ぐるりと一周して最初の入り口のところに戻ってきました。入り口両側の塔にはめ込まれた紋章が目を引きます。

もう7時です。さすがにお腹がすきました。適当なレストランはと探して、今日はフランスから離れてイタリアに浮気、ということでオーガニックなピザ屋さんに入り、サラダとピザを食べました。もちろん半分ずつ分け合って。 食事の後はホテルに戻ってチェックイン、ロッカールームに預けた荷物を受け取って部屋に入り、シャワーを浴びて寝ました。長い一日でした。


フランスにいたよ(8)海水浴場、カンペール

ラクトディ―は港町と紹介しましたが、保養地でもあります。(5)のGoogleEarthの地図の上辺から右側に広がる白浜は、磯もあって手ごろな海水浴場になっています。

この日はお天気が良く、青い空が澄み渡っていました。海辺にいるのに、あまり湿気を感じません。空はあくまで青く、高い感じです。

ラクトディ―は本当に小さな町で、しゃれた洋服屋さんとか靴屋さんはありません。しゃれた店で買い物をしようと思ったら、ポン=ラべ(Pont-l’Abbe)に出かけるか、さらに足を延ばしてカンペールまで出かけます。

ポン=ラべは、ラクトディ―の港のすぐ北側に河口のあるポン=ラべ川の上流にある町で、満潮の時は潮が町まで到達します。つまり船で街まで上がってこれるのです。この町はラクトディ―と関係が深く、14世紀にラクトディ―の修道院長がここに橋を架け、通行税を徴収していたそうです。
ここが満潮時の潮の先端になっているようです。今はだいぶ潮が引いています。下の写真は下流の方を向いて撮ったものです。

すぐ並びに大きなビスケット屋さんがありました。店内にはいろいろな種類のビスケットが並んでいます。ウズラの卵もありました。
そっくりですが、実はウズラの卵ではなくチョコレートです。

お店の並んだ細道と、住宅街への細道。古い町並みのようです。青い標識はどうやら子供の手を放して歩いても大丈夫というもので、表通りには手をつないだ標識がありました。桝形は昔の井戸でしょうか。中は蓋がしてありました。市役所の前の広場には、装飾品を売る屋台がたくさん出ていました。

カンペールはもっと大きな町です。この町もラクトディ―の東側に河口があるオデ川の上流にあり、その他の2つの川との合流点に町が形成されました。ポン=ラべに比べるとかなり内陸にありますがオデ川で海とつながっていて、交通の重要な要所であったようです。

ラクトディ―から車でポン=ラべを経由して30分ほど、町の中心部にある地下の駐車場に車を停めて上に上がると、Théâtre de Cornouailleの前の広場に出て、目の前にサン・マチュー教会(Eglise St Mathieu)の尖塔が見えます。
最初はこれがカンペールの大聖堂かと思ったのですが、そうではありませんでした。広場を横切ってシャポー・ルージュ通りを西に進むと、両側にしゃれたお店が並ぶようになります。橋を渡ってケレオン通りに入るのですが、橋の上から川筋を眺めると古い石造りの建物が見え、橋には花が飾られていて、絵になる景色になっています。
ケレオン通にはたくさんのお店が並んでいて、そこから左右に伸びる道の両側にもたくさんオオ店が軒を連ねています。通りの向こうには聖コランタン大聖堂のファサードの2本の尖塔が見えます。
近づくととて大きな、確かに大聖堂です。
中に入るとステンドグラスが美しく並んでいます。
入口の方から奥のChapelを見ると、なんか変です。写真でわかるように左の方に曲がっているように見えます。
たしかめるためにGoogleMapの航空写真を見てみると、確かに北の方に若干曲がっています。普通の教会は十字架の形をしているのに、、。
大聖堂は1239年に建設が始まり、最終的に完成したのが15世紀だったそうです。曲がっているのは軟弱な地盤を避けるためだということですが、十字架上のキリストが傾けた首を表しているともいわれているそうです。

教会の前の広場に面した古い建物のお土産屋さん、通りに面した花屋さんもしゃれています。
これはマコロン屋さん。

帰り道に広場でバグパイプを吹いている人たちと、輪になって踊っている人たちに出会いました。輪になって踊るのが大好きなようです。

カンペールではどんよりとした空でしたが、ラクトディ―に戻ると、空は青空でした。もう夕方7時なのに、まだこの明るさです。

カンペールについてはまだ書きたいことがあるのですが、この辺でやめておきます。

 


フランスにいたよ(7)宴の後は

パーティーの翌日、お昼前に宴の後の迎え酒ならぬ迎えパーティーの準備です。庭に大きなテーブルというか使わなくなった扉を並べ、紙のテーブルクロスを敷いてお皿を並べ、オードブルを用意し、飲み物を冷やします。Philippeは、肉を焼くために大きなバーベキューコンロに木をくべて火をつけ、準備をします。

昨日参加した人の大部分が、お昼過ぎから三々五々、集まってきて準備の手伝いをしたり、おしゃべりをしたり、、。ワインとアペタイザーはふんだんにあります。

メインのソーセージや肉は、Philippeがバーべ―キューコンロで焼き上げます。暑いので熱いです。

付け合わせのポテト、サラダとデザート、それにチーズが用意されています。チーズはみんなが持ち寄ったものなので、いろいろな地方のものがありました。
チーズは後回しにして、まずはメインを各自取って、ベンチに座って遅めのランチです。

この後一族が年代別、兄弟別に集まって集合写真。前にも書いたのですが、何しろPhilippeha6人兄弟姉妹、Brigitteは5人兄弟姉妹、その連れ合いと子供、さらに孫がいるので、とても名前を覚えきれません。でもまあ、写真はこんな感じです。まずは、子供と孫たち。
続いてBrigitteと兄弟姉妹。5人より多いのは従妹とその連れ合いが入っているからです。
そこに連れ合いが加わります。
この日、一番上のお姉さんSylvianの連れ合いのYvesは欠席でした。続いてPhilippeとその兄弟姉妹とその連れ合い。
最後は必ずふざけたポーズで締めます。Philippe&Brigitteと我々、とその子、孫は、つつましく写真に納まりました。
最後はチーズ、上に書いたように、いろいろな種類のチーズがあって、それぞれに美味しいものでした。で、デザートとコーヒー。宴も終わりに近づいてきました。
みんなで手分けして後片付け、その後、それぞれさようならのあいさつをして今回はこれでお別れ。庭は元の状態に戻りました。
この日の夕食は午後9時過ぎに軽く済ませ、フランス革命について、皆でおさらいをしました。
昨日に続き、今日も長い一日でした。おやすみなさい。


フランスにいたよ(6)パーティーだー

これまで、娘の結婚式の披露宴、義理の息子(娘の旦那)のお母さんであるBrigitteのお姉さんの旦那の退職記念パーティー、と2度のパーティーをフランスで経験しましたが、今度の結婚40周年記念パーティーも同じような形式でした。

まず会場ですが、田舎の一軒家みたいなところが貸会場になっていて、そこを借りて行います。今回はこんな感じです。

テーブルは会場に用意されているのですが、食器や飲み物、食べ物は持ち込み、テーブルの飾りつけも自前でやります。おとといはナプキン、当日の朝にはオードブルの用意をみんなでしました。かをりはPhilippeの折った折り紙に華を添えるために、動画を見ながらカニの折紙を苦労して折って用意しました。

我々も会場へ出発。先に出たPhilippe&Brigitteが、テーブルセッティングを済ませていました。

お人形の台座、平たい小石はこんなふうに使われていたんですね。このブルターニュ地方の衣装を着た人形は、Brigitteの姪御さんが制作したもので、10組、それぞれポーズが異なるものがありました。テーブルには40の数字が散らばっています。

今朝作ったオードブルとワインからパーティーは始まります。

参加するのは、Phillippe & Brigitteの兄弟とその子供たちとそのつれあい、その子供たちです。例外的に子供の連れ合いの両親というのもありますが(我々です)。Philippeは6人兄弟、Brigitteは5人兄弟なので、結構の人数の参加者です。

パワーポイントで二人の結婚とその後のFamily historyが紹介されました。みんなそれを見入っています。40年の凝縮です。

でもってメインの食事はガレットでした。ガレットというのはクレープの原型ともいうべきもので、ブルターニュ地方が発祥の地です。そば粉を使った薄い塩味のクレープと思えばいいでしょう。懇親会に屋台のお蕎麦屋さんが出ているのと同じで、二人の焼き屋さんがいて、こちらの注文に応じてキノコやハム、卵、チーズなどの中身を組み合わせて焼いてくれるのです。

ガレットはとても薄いのですが、中身が濃いので一枚でかなりのボリュームになります。中身を変えて3枚も食べてしまいました。メインの後には、中身をジャムなどにしたデザートを注文できます。

テーブルではおしゃべりの花が咲き、まさにファミリー・リユニオンです。
写真は右から娘、旦那Guillaume、Yves(Brigitteのお姉さんの旦那)
7時半から始まったパーティーは、もう11時近くになっています。ここでPhilippe&Brigitteがマイクを持って、みんなからのプレゼントのお披露目です。でもちょっとその前に。お二人の40年前の結婚式の時の写真が会場の入り口にあって、参会者はサインをするようにとのことだったので、その写真をパチリと撮ったものを載せておきます。時の流れを感じます(人様のことは言えないのですけれど)。

プレゼントはいろいろあって、紹介しきれないのですが、カリグラフィーの先生からのプレゼントはこんなものでした。Philippeはギターを、Brigitteはアコーディオンを弾くのです。
右端でアコーディオンを弾いているのは、Brigitteのお姉さん(Yvesの奥さん)です。こうしてダンスが始まりました。ブルターニュ地方の輪になって踊る、あれです。 昔から、盆踊りの輪に入っていけなかった小生は、輪の外で写真を撮るのみ。踊りはまだまだ続きます。もう午前1時です。疲れた子供たちは、会場の庭に張ったテントへ、あるいは部屋の隅にマットを敷いて、、眠れるんでしょうか。

パーティーはまだ終わっていないけれど、我々も1時過ぎに家に送ってもらって眠りにつきました。だからパーティーが何時にお開きになったかは知りません。


フランスにいたよ(5)ラクトディ―周辺

この週末、29日には今回フランスへ来た最大の目的であるPhillippe & Brigitteの結婚40周年記念パーティーが開かれます。テーブルの飾りつけの折紙を用意したり、小物を購入したりして、着々と準備を進めているようです。まだ少し時間があるので、ラクトディ―とその周辺のことをもう少し書いておきます。下の写真は、GoogleEarthから取得したラクトディ―の港と街の写真です。

前回、フィジャックの教会のことを書きましたが、ラクトディ―にも、ダウンタウンの港近くに聖チュディー教会(Eglise  Saint-Tudy)があります。上の写真の中央やや左よりに見える長方形の区画にある建物です。

結構古い教会で、英文のパンフレットによると、名前は5、6世紀にウェールズから来た修道士Saint Tudyに因んでつけられたとのこと、ウェールズのコーンウォールには同名の村があります。ブルターニュとウェールズのつながりを示す事例の一つです。ちなみにラクトディ―も、Loc(=place) + St Tudyから来ているとか。ともかくかなり古い時代に修道院がこの辺りに建てられ、その後ヴァイキングに破壊されて、、というような歴史があり、11世紀から12世紀にかけて、現在の地にロマネスク様式の教会が建てられたようです。
上の写真は、西側から撮ったもの、下の写真は東側から撮ったものです(撮影日が異なるので空の様子が違います)。
内部はこのようになっています。ゴシック様式とはだいぶ違うことがわかります。内部に入ると東側の祭壇はこんな感じです。

何度も補修しているらしく、新しい壁材がかなりの部分を占めていますが、古いものらしい壁材には特徴的な文様が浮き彫りになっています。ケルトの文様を思わせるものです。
この時は気が付かなかったのですが、柱の基部にもそれがうかがえるようです(写真はフランスのWikipediaより)。
2枚目の説明には「アダムとイブか」とありました。壁には、Saint Tudyと大天使ミカエルの幟がかかっていました。

振り返って、西側を見上げると、立派なパイプオルガンが備えられています。そういえば、フィジャックの教会のどちらにもありました。誰かが演奏をしています。どうやら練習をしているようです。日本ではパイプオルガンを練習しようとするとオルガンを見つけるのが大変ですが、こちらではどこにもあるという感じです。椎名雄一郎さん(新宿高校の同学年の友人のご子息)のことをふと思い出しました。つい先日、東京カテドラルでの演奏会を聴きに行ったものですから。

ブルターニュ地方は、新石器時代の遺跡である巨石遺跡群がたくさんあります。カルナックの遺跡群が規模が大きく有名ですが、ラクトディ―近くにもいくつもあり、そこへ連れて行ってもらいました。

ドルメン(支石墓)は、平たい石を組み合わせてテーブル上の構造を作り遺体を埋葬し、本来は土で覆われていたものが時間が経って石組みが露出してしまったと考えられています。最初に行ったのはKervadolのドルメンです。

少し歩いて次がQuelarnのドルメン。

あと林の中や畑の脇などを通って、3つだったか尋ねたのですが、場所がわかりません。道端にごく普通にあり、特別な説明もありません(上の2つには説明板がありました)。生活の中に溶け込んでいるというか、道端のお地蔵さんといった感じでしょうか。
最後のなどはかなり大きいのですが。

別の日ですが、Chapelle Notre-Dame-de-Tronoenを訪れました。このチャペルの庭には古いカルベールがあるのです。カルベール(Calvaire)とは、教会の敷地内にある石でできた長方形のモニュメントで、四面に彫刻が施してあり、キリストの一生が描かれています。そしててっぺんはゴルゴタの丘になっていて、キリストの磔刑と、ピエタの彫刻があります。

ボランティア(?)のガイドさんが、長い指示棒で、それぞれの彫刻を指しながら団体の人たちに説明していました。15世紀中ごろのものなので、だいぶ脆くなっているようでした。そのため指示棒の先端は綿入り帽子をかぶせてありました。説明板によると、当初は極彩色に彩られていて、あたかもcomic stip(絵巻物)のようなものだったそうです。東面の下側から順に時計方向に回って、一回りしたら上の段に移り、辿っていくと、キリストの一生を追えるわけです。特徴として聖母マリアは出産のためにbare breastでベッドに横になっている、とありました。たしかに、、。次のは最後の晩餐でしょうか。

キリストは最後は丘の上で、他の罪人2人と磔刑になります。そしてピエタと復活と、続くのでしょう。

ここのカルベールは、ブルターニュ地方の7大カルベールの一つらしいです。

そうそう、ドルメンを訪ねて歩いた時に、歩きながら平たい石を集めていました。手ごろな大きさの平たい石、何に使うんでしょうかね。