生い立ちの記(15)新宿高校時代(後)

修学旅行は高校2年の時でした、1962年3月だったと思います。中学・高校の修学旅行と言えば、京都・奈良が一般的でしょうが、我々は名古屋から宇治山田駅へ行って伊勢神宮を参拝し、そこから西へ移動して長い登廊で有名な長谷寺、飛鳥へ出て石舞台と飛鳥寺、法隆寺、さらに西の京の薬師寺と唐招提寺、宇治の平等院鳳凰堂、奈良市内に入っていくつかのお寺、そして京都に入って金閣寺、銀閣寺、西芳寺、清水寺など、最後にひので号で帰京というルートでした。歴史の流れを重視したコースなのだとか。旅行中、どこに泊まったのか、まったく記憶にありません。

修学旅行の(たしか)直前に、待望の新しいカメラを買ってもらいました。アサヒペンタックスS3でした。このカメラで修学旅行中の写真をたくさん撮影しています。でも、当たり前ですが、本人が写ったものはありません、訪ねたお寺の写真と、移動中の電車・バスの車内での級友(しかも女性が多い)の写真ばかりです。

伊勢神宮から、長谷寺を経て飛鳥までの写真です。

どうも宿泊したのは奈良市内のようで、上の最後の写真に続いて朝の散歩の写真。かすかな記憶によると、猿沢の池の東側にある旅館ではなかったかと思います。写っている五重塔は、興福寺の五重塔のようです。

バスで法隆寺へ。雨がシトシトと降っていて、空はどんより。写真もパッとした映りにはなりません。

西ノ京へ移動。薬師寺、この時は、薬師寺伽藍には東塔しかなく、西塔は礎石だけ(昭和56年に再建)、金堂も仮のものでした(昭和51年に再建)。

唐招提寺に行ったはずですが、写真はありません。次の写っているのは、多分天皇陵、崇神天皇陵ではないかと思います。そこで女性陣の集合写真。次に宇治の平等院でした。

残りの写真は、京都の寺院のものです。最初の方は大徳寺大仙院、金閣寺、竜安寺、どこかのお寺で庭を見ながらお弁当、西芳寺、銀閣寺、最後のは清水寺の舞台を見上げた写真のようです。今のように、スマホで撮ると位置情報が記録される、といったことがないので、場所がわからない写真が出てきて???です。

小・中学校では必ず集合写真を撮っていたのですが、高校では撮らなかったのでしょうね。自分が写っている修学旅行の写真は、卒業アルバムに載っている、これ一枚です。階段上の山門の下で、西原君と禅問答?

こうして3年生に
こうして3年生になりました。3年D組の担任は石川太郎先生で、生物の先生です。前に書いたように、3年の生物は軽く流すという予定でしたが、2年の物理がよく理解できず、つまらなく感じたのに対して、生物の授業はおもしろかったのです。級友に聞くと、生物の授業は戦争の体験話しか覚えていないというのですが、メンデルの法則を黒板にパネットの方形を書いて説明してくれて、とても面白かったと記憶しています。ここから物理ではなく生物方面に進もうと思い始めました。いずれにしても、大学受験が目の前に迫ってきます。がしかし、、。

ウェスターンブームに影響されてか、マテル社の拳銃を手に入れ(友達から買ったと記憶しています)、確か捨ててあった皮のランドセルを拾ってきて、これを改造してホルスターを作り、玄関わきの洋間で早打ちの練習をしました。その写真が残っていました。ホルスターを脚に固定するストラップ、撃鉄をロックしておくループ状のストラップなど、かなり凝っています。映画の友の特別増刊号西部劇読本をもっていました。これなんかを参考に造ったんですね。下の写真では、ロックを外して腰に装着しています。

どのくらい早く拳銃を抜けるか、計測する手段としてストップウオッチなどがなかったので、写真の露出を0.25と0.5秒にして写真を撮影し、時間を推定しています。

これで見ると、左側の0.25秒の写真では銃と手の動きはわずかですが、右側の0.5秒の写真ではホルスター上に向かい前の方に動いていくのがかすかに写っているので、0.5から1秒の間に抜いているように見えます。けっこう早打ちかな?高校3年生にもなって、こんなことをしていていいんでしょうかね。

カメラを手に入れたので、家族の写真を撮る機会も増えました。修学旅行の残りのフィルムを使って、玄関の前と庭で撮ったものがありました。

また奥沢の家からは歩いて20分ほど離れた等々力渓谷で、母をモデルにポートレート撮影を行っています。等々力渓谷、懐かしいですね。等々力不動尊の境内を通って、階段を下りたところに不動の滝と呼ぶ、滝行をするために龍の形をした吐水口が2つあります。向かって右の方は口の部分が欠けていました。白装束のおばあさんが、滝に打たれているのをよく見ました。最初の写真は、その滝の前で撮ったものです。等々力渓谷は当時はまだ今ほど整備されていませんでしたが、それでもなかなか趣のある、涼しげな場所でした。

学校行事としては、6月に戸山戦がありました。戸山戦は伝統的な行事で、両校がいくつかの競技の対抗戦をやるのです。この年は、戸山高校で行われました。たしか全生徒参加で、出場しなくても応援に行かなければいけなっかと思います。筆者は柔道に出場してます。いえ、柔道部ではなかったのですが、たしか部長の堀内元君に、人数が足りないから出てくれと言われて、渋々出たのです。中学校の時に、ちょっと寒稽古に出たのを知られたのでしょうか。2回対戦をした記憶があり、一回目はきれいに投げられました。次は寝技で勝ったように記憶しています。写真は何枚かあるのですが、遠いので誰が試合をしているのか判別できません。一枚目は、髪型からみて堀内君ですね。

新宿区柔道会へ入会して、試験を受けて初段を取得しました。見つけ出した会員証を見ると、入会日が11月11日になっているので、戸山戦のずっと後になります。戸山戦の前だと思っていましたが。


前に書いたように、6月に祖師ヶ谷大蔵に引っ越します。引っ越す直前に、尾山台の家の周囲と家族を撮影していました。生まれてから18年間過ごした家なので、とりわけ惜別の情があったのですね。

8畳間の前の庭での写真と、堀炬燵のある8畳間での写真です。最後の写真の大きな火鉢が、祖母が愛用していたものです。


そうそう、油絵を撮影したものがありました。確か、美術の時間に描いたものだと思います。吉江先生の美術の授業、最初はパステル画で校内でスケッチをしました。筆者は校門から入ってすぐの所から、やや下る道と樹木を描いた記憶があります。それからイーゼルスタンド(画架)を手作りして、塗装して仕上げました。よくあるのは光沢のないニス仕上げでしょうが、紫がかった濃い茶色のカシュー塗料を塗って、変な感じになりました。下の図は参考ですが、これと同じような作りでした。このイーゼルを使って描いた油絵だと思いますが、引っ越しの折に、処分してしまったのだと思います。

引っ越した先は、祖師ヶ谷大蔵駅から北へまっすぐ行って左(西側)へ曲がった先の住宅でした。地番は世田谷区祖師谷2-571-21でしたが、住居表示変更後の現在の2丁目とは異なっています。宅地の隣は雑木林で、少し先へ行くと仙川の川べりに行き当たりました。気になったので世田谷区のホームページから地番と住居表示実施前の住所の対応表を見つけて調べたら、上の住所は現在の祖師谷5丁目17であることが判明しました。下の図はGoogleMapから切り出したもので、赤い枠内がその地番です。


国土地理院のページに、この範囲に対応する1961-1969年撮影の航空写真がありました。どうやら、新しい家は下の写真の円内の中央のようです。

祖師ヶ谷大蔵駅から歩いて15分くらいの距離でしょうか。奥沢の家と比べると、ちゃちな造りの小さな家でした。

引っ越しが済んでほっとしているところでしょうか。


夏休みだったでしょうか、前田通子の「女真珠王の復讐」がテレビで放映されました。作品は1956年に封切られた新東宝の映画でしたが、前田通子が絶海の孤島の海岸に裸に近い姿で漂着したり、彼女をめぐって先に漂着していた5人の男が争ったり、漂着した島で海へ入るのに手ブラのシーンがあったり、遠景だけど前田通子がオールヌードになったりと、ヒットした作品だったようです。それでテレビでの放映時に、画面を撮影しました。そういうのが気になる年頃だったのですね。一眼レフのカメラのシャッターがフォーカプレーン方式で、斜めに影が入るのを知りませんでした。


この後、家族の写真がありました。弟が夏休みの合宿か何かに出かける格好をして玄関内で撮ったものと、家の庭や近くで撮ったものです。


秋の朝暘祭、この年は音楽部で「さるかに合戦」をやりました。臼の役でした。残念ながら、手元に写真は残っていません。

前にも書きましたが、物理に興味が持てず生物が面白くなり、受験科目も当初の予定を変えて生物で受験することにしました。卒業アルバムの中に授業風景の一つとしてあった写真、顔つきから多分筆者だと思います。生物で顕微鏡をのぞく実習があったのかどうか、憶えていません。


そうこうしているうちにいよいよ大学受験、この年は、東大一つだけに絞って受験しました。自信があったというわけではありません。落ちてもいい、浪人するから、というつもりだったのです。東大の受験票がありました。当時は足切りの一次試験があり、これはさすがに通過して、二次試験を受験、5教科7科目でした。予想通り、落ちました。


こうして無事に(かどうかはともかく)、新宿高校を卒業しました。卒業アルバムに載っている3年D組の写真です。卒業式のことは憶えていません。

この後は、浪人時代に入ります。


科学と生物学について考える一生物学者のあれこれ

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