生い立ちの記(13)新宿高校時代(鳩を飼う)

これまでも、小学校時代にハツカネズミやジュウシマツを飼育したことは書いてきました。この他にも、メダカを飼ったり、カメを飼ったりもしました。メダカは、屋外のとても小さな池だったので、冬に池の水が凍結して、死なせてしまいました。カメも、浅はかな知識で冬眠させようと地中に埋めたら、翌春に出てこないので、掘り出したら死んでいて、ショックを受けた記憶があります。ペットではないけれど、アリを透明ガラス瓶で飼ったりもした。そんな負の歴史を背負いながら、伝書バトを飼育しようと思ったのです。このころ、鳩の飼育が流行っていました。後藤君や秋山君の家には鳩小屋があり、飼育されていて、それを見ていました。日記によれば、1960年5月26日に初めて「鳩をかうんだ」の記述が見えます。

その後、28日に鳩小屋を作り始めました。残念ながら写真を撮っていないので、どんな作りだったか正確には憶えていないのですが、5センチほどの長い角材4本を、90センチ(およそです)四方で立てて、地面からやはり90センチほどの所に床を張るための横木を渡し、屋根を張るためにも横木を渡し、片流れの屋根を張ったと思います。角材をどのように手に入れたのか、憶えていないのですが、とても堅い木だったようで、「釘がまがる始末。太いやつ(トンカチ)でガンガンうつ」とあります。「骨組がやっとできたときには、もうガックリ。きょうはやめ。」家の西側の裏庭に設置しました。

29日は日曜日なので、「一日、鳩小屋作りにあけくれた、overかな。後藤君や前原君をつれてきて、骨組みを組み立てて、形ができる。あとは板をはっていく。後藤君がかえってから、矢島君や務(弟)と板をはる。まわりのかべの8分どおりできる。グラグラしていた小屋もガッシリしてくる。」大分手伝ってもらったようです。

30日から6月1日まで、鳩小屋のドアを作ったことが書かれていて、その後に小屋作りの記述はなくなります。記述はありませんが、当然、到着台を作り、トラップをつけて鳩が入れるようにし、内部には止まり木と巣皿を置く棚を作ったはずです。また、飼育に必要な茶色の陶器製の給水器、営巣用の巣皿(石膏製)、鳩用の配合飼料(トウモロコシを主に麦や豆、麻の実などが混じったもの)、それから塩土を買いそろえました。

この後は、別に作ったノートの中に、鳩日記として導入からその後の繁殖の様子が書かれています。

「6月18日 後藤氏より2羽(♂B、♀BC つがい)をもらう。」とあります。Bはblueの略で、灰二引、BCはblue chequerの略で、灰胡麻のことです。次の写真が灰二引(上)と灰胡麻(下)ですが、これはもちろん当時のものではありません。日本鳩レース協会のページからお借りしています。ちゃんと脚環(以下足環)が付いていて、♂は58-359285、♀は57-425713でした。

こうして飼い始め、鳩が鳩舎になれると、つがいは巣皿に入り、8月31日に第1卵を、9月2日に第2卵を産みました。その記述のあるページをスキャンしました。

9月17日と19日に無事に孵化しましたが、後から孵化した1羽は先に孵化した雛によって押しつぶされて死亡しています。10月25日に残った1羽に足環(60-289853)を装着、順調に育って10月17日に完全に巣立ったことが分かります(BC)。その後、トラップに慣れさせ、外に放してトラップから戻る訓練をしています。
装着した足環は、日本鳩レース協会が所有権証とともに発行するもので、所有者である証拠となります。どうやって入手したのか覚えていません。本来は協会に作出登録を提出するものなのでしょうが、所有権証を保持しているだけで、登録をしたことはありませんでした。

このつがいは優秀で、上の巣立ちの後、11月に次の産卵をしています。無事に孵化しましたが、残念ながら巣立ち前に「外敵の為2羽とも死亡」となってしまいました(外敵が何かは書かれていませんが、猫だと思われます)。さらに、次の産卵があり、1961年1月24日に2羽とも孵化し、巣立ちをしています。その後も、3月、5月、8月と産卵をして何羽かが巣立ちをしていますが、死んでしまった個体もかなりいます。ノートには、このつがいを出発点とした系統図が荒っぽく書かれていたので、これと日記の記述をもとに、血統図をExcelで描いてみました。

1961年3月4日に、秋山氏から栗胡麻の個体を譲り受け、鳩舎に導入して一番初めに生まれた灰胡麻の個体とペアにしています。

この栗胡麻はかなり由緒正しいもので、血統書が付いていました。50k、100k、120kの訓練を受けているばかりでなく、その血統には長距離のレースで入賞した個体が複数います。優秀過ぎたのか、どこかの時点(記載がなく日時不明)で、行方不明になってしまいました。

鳩レースに出すつもりはなかったのですが、帰巣の訓練は必要です。最初は、家の周りを自由に飛ばして、鳩舎に入る訓練をします。そのうち、放鳩籠を購入し、ある程度、慣れた個体を、自転車の後ろに括り付けた放鳩籠に入れて、放鳩しに行きました。次第に距離を伸ばして、多摩川のほとりまで行った記憶があります。たいした距離ではなく、1㎞か2㎞でしょうか。もっと遠くまで行ったかもしれませんが、あまり覚えていません。それでも、この過程で帰ってこずに行方不明の鳩が出てきました。

その結果、1961年7月の時点で、5羽になってしまいました。復活をはかるため、島崎氏(誰だか覚えていない)から♂♀2羽を譲り受け、♂は栗胡麻に逃げられた♀個体と、♀は最初のつがいから3月に生まれた♂個体とペアにしました。後の方のつがいは2回産卵して、12月に産卵した2卵からは雛が巣立っています。

この後の記述は、飛び飛びであいまいになり、はっきりとは後を追えなくなります。別項で書きますが、いろいろとあったのです。結果的に、1962年6月に世田谷区奥沢町(現在では尾山台)から、祖師ヶ谷大蔵に引っ越します。古い鳩舎も一緒に引っ越しをしたのか憶えていません。したのかもしれません。いずれにしても、この間に、後藤氏からもらった最初のつがいのうち♀58-359285は猫にやられ、♂57-425710は不明(多分、行方不明のこと)になり、さらに多くの個体が不明と書かれています。また、♀60-289853は譲渡しています。このページの最後に、「「以上は、1962年9月10日に書いたものだから非常に不正確である」とあります。

一段落した8月15日から9月2日まで、心機一転して引っ越し先に新しい鳩小屋を作っていて、ノートには、ずいぶんと丁寧に材料費の内訳が書かれています。
布石 900、セメント 450、ビニ管 100、材木運搬費 385、板材 910、角材 110、組板 195、トラップ 180、金網 590、金具 135、釘 120、トタン 705、トタン釘 20 材料費合計 4,080円、それに延べ人数30人に200円をかけて6,000円を計上し、総工費10,800円としています。

こうして竣工した鳩舎には、9月10日の時点でわずかに2羽、61-084523と62-156195のみ、どちらも♂でした。その後、このページは空白です。

次のページに、3月の日付で「BC 秋山氏より譲り受く」とあり、前年生まれの若い♀をもらったようです。4月1日(月)に産卵がありましたが、♀はあまり熱心に抱卵をせず、結局、4月20日に無精卵であったと書かれています。年号が書かれていないのですが、曜日から判断して、1963年のことでした。
さらに次のページに「4月30日(火)に第1卵をうむ、5月1日(水)に第2卵をうむ」とあります。その後、抱卵に熱心でない若いメスに任せず、5月9日には偽卵を入れて卵を取り出しました。東芝のアンカを箱に入れ、周りに衣類を入れた保温箱を作り、卵をそこに入れて孵卵を継続しています。保温箱の温度は「40~42°位」とあります。両方とも有精卵であることを検卵して確認、その後、「5月16日(木) 電灯に透かして観察。血管の伸びているのがわかる。気室が非常に大きくなっている。卵殻内にしま模様が見える。15日から1日1回霧吹きで水をかける。」さらに「5月19日(日) 一点(1㎝径)が特に黒くなっているのがわかる。」とあります。

ここでノートの記述がぷつりと無くなっています。おそらく孵化しなかったのでしょう。また、6月に祖師ヶ谷大蔵から相模大野のアパートに引っ越したので、鳩の飼育は終わりを告げました。丸3年、飼育したことになります。鳩の育雛の様子を見たり、帰巣の訓練をしたりと、それなりに楽しみましたが、猫にやられたり、原因不明で死ぬ個体も多く、悲喜こもごもでした。


科学と生物学について考える一生物学者のあれこれ

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