生い立ちの記(9)尾山台中学校時代(後)

この頃の日々の暮らし
この頃の日々のことについて、書いておきます。

昔の家は目的別の部屋があるわけではないので、勉強部屋というか自分の部屋はありませんでした。仕方がないので下の間取り図の北側にある納戸を勉強部屋にしました。今のようにリフォームしたというわけではなく、タンスや洋服ダンスを少し動かして隙間を作り、柘植の木でできた座卓を置いて勉強机にしたというだけです。三味線が壁にかかっていたのを覚えています。祖母が弾いていたのでしょう。でも使っているのを見たことはありませんでした。

寝る場所は床の間のある8畳間。広い部屋に押し入れから布団を出して敷いて寝ました。天井板の模様がぐるぐる巻いていて、寝て見上げると、ぐるぐる回ったり上下したりする感じがして、小さい頃はなんとなく怖かった記憶があります。床の間にはだいぶ古びた狩野芳崖の「悲母観音」の掛け軸がありました。本来なら春夏秋冬に応じて掛け軸は変えるのでしょうが、ずっと同じだったと思います。なんでこの掛け軸だったのでしょうかね。
前にも書いたと思いますが、この家は昭和初期に建てられたもので、割合と凝った作りでした。たしか親戚の大工さんに頼んだといっていたように思います。8畳の床の間の床柱は黒檀でした。よく「紫檀・黒檀・鉄刀木(たがやさんと読む)と言われる三大銘木の一つなのよ」、と聞かされました。また床の間のある8畳間と隣の8畳間の間の欄間には、凝った透かし彫りの彫刻がはめ込まれていました。松の木のある日本三景の松島だったような、、。

床の間の横の廊下側に張り出した明り取りの出窓には、わりと立派なオルゴールつきの金色の時計が置かれていました。曲は「美しき天然」でした。側面のガラスを通して、内部の時計仕掛けが見え、羽のようなテンプが回るのが見えました。多分、次の写真のものだと思います。下にリンクを張ったページの説明には、「精工舎の角型置時計は枕時計と呼ばれ、この型のものは大正12年から昭和初期まで製造された」と書かれていました。後ろに扉があり、開いてネジを巻くようになっています。

尾山台中学校は家から近かったので、遅刻することもなく毎日、楽しく通いました。家の前の道を尾山台小学校の方に歩き、まだ畑地だった角を右に曲がって、やや広い用水路に沿って北に向かって歩くと、中学校の運動場の端近くにぶつかります。運動場に沿って歩くと裏口があるのでそこから学校へ。

学校の授業の細かいことは、小学校の時と同じく、よく覚えていません。理科は確か春日先生、社会は原島先生、国語矢田先生、音楽は平松先生だったと思います。原島先生の社会の授業(地理)で、九州から北海道まで順に、白地図に色鉛筆で平野や山を塗り分ける宿題が出て、毎回(一回を除いて)「大変よくできました」の花丸マークがついて、教室の後ろに貼りだされました。

授業の内容でよく覚えているのは英語です。たしか2年生の時に、新任で今武先生が着任し英語を習いました。アメリカから帰ってきたということで、発音が1年生で習ったのとはだいぶ異なりました。たとえばimpossibleを、それまでは「インポッシブル」とカタカナで表記したように言っていたのを、今武先生は「インポッサブル」と「イ」は「イとエの中間」で「ポッ」を強く、体を上下しながら発音するのです。今、考えると正しいアメリカンの発音だったのですが、以前とはあまりに違うので、みんな馬鹿にしていました。

テープレコーダーを教室にもってきて英語の歌を聞かせて、英語を教えたのも今武先生でした。よく覚えているのは、ブラウンズの「谷間に三つの鐘が鳴る」です。今でも、1番の出だしの部分や繰り返しの部分を、全部ではないけれど思い出して書くことができます。
There’s a village hidden deep in the valley
Among the pine trees half 次の単語あいまい
And there on a sunny morning
Little Jimmy Brown was born

All the chapel bells were ringing in the little valley town
次の行あいまい
Then the little congregation prayed for guidance from above
Lead us not into temptation, bless this hour of meditation
Guide him with eternal love

2番目の鐘は結婚の折、3番目の鐘は死んだとき、というあっという間のジミーブラウンさんの一生の物語です。ガリ版刷りの歌詞カードを手にもって歌いました。そのためか、congregationとかtemptationとか、meditationとかの難しい単語を覚えました。

この歌がアメリカで発売されて流行ったのは1959年(昭和34年)と書かれているので、習ったのは3年の時だったかもしれません。

これも3年になってからなのかもしれませんが、学校以外に塾へ行きました。数学は母がたしか山口裕子さんのお母さんに先生を紹介してもらい、個人的にその先生の下宿先で秋山君と(もしかしたら宮里君も)数学を習いました。また、電車に乗って英語塾に秋山君、宮里君と通いました。高架の大井町線旗の台駅の階段を下りた途中にあった、大谷英語塾という名前だったように覚えています。

お昼休みになると、放送部が音楽をが教室に流しました。ここで初めてスメタナの「モルダウ」を聞き、すごく感激してEP版を買い求めたのを覚えています。ジャケットだったか盤面に色鮮やかに印刷されていたのは、モルダウ川ではなく、たしか黄色の花の接写写真だったと思います。指揮と演奏は誰だったか覚えていません。ここでは、有名なカラヤン指揮の演奏にリンクを張っておきます。

部活は水泳部と音楽部。水泳部では、シーズン前にプールの水抜きをして、水がなくなった後、デッキブラシできれいに清掃して水を入れ、コースロープを張って練習でした。プール練習の後、尾山台商店街の和菓子屋さん「おか乃」で氷小豆(1杯10円だった)を食べるのが楽しみでした(写真は上野公園内みはしよりお借りしています)。音楽部のことはあまり覚えていません。

中学2年の時に柔道の寒げいこに参加しました。部長だった斎藤嘉輝君に誘われてです。誘いに乗ったのは、寒げいこの最後の日に鏡開きのお汁粉が食べられるので、それに惹かれてです。この図はここからお借りしています。

広い体育館の一角に畳を敷いての寒げいこ、畳表がビニール製だったので冷たくて閉口しました。でもここで受け身の練習をして習得しました。これはずいぶんと役に立ちました。組手も随分やって、技をいくつか覚えました。で肝心なお汁粉の味、覚えていません(写真はここから)。氷小豆と言いお汁粉と言い、甘いものが好きなんですね。

2年生の時、夏休みに静電容量式センサー警報器を作りました。どういう経緯で作ることになったか定かではないのですが、少し厚手の板に部品を載せて、回路がわかるように配線して完成させました。ミニチュア管(mT管)と抵抗、コンデンサーの類は秋葉原に買いに行きました。センサー部分は金属の板で、そこに人の手が近づくとコンデンサーの容量が変化し、それが引き金になってブザーが鳴る(あるいは電球が点る)ようなものだったと思います。ショーウィンドウの防犯ブザーですね。これって今や当たり前のスマホのタッチパネルの原理と同じですよね。下の図はイメージで、センサー部分の原理のみを示しています。容量増加によってリレー回路が駆動されるようになっているのです。

部品代などは自分で負担したとは思えないので、お金の出どころはどこだったんでしょうか?謎です。夏休みの作品展覧会に出したように記憶しています。

3年生
こうして3年生になります。高校受験が目の前にちらついてくる頃ですかね。馬のマークの受験研究者の参考書「自由自在」シリーズを買いそろえて机の上に置き、やったつもりになっていて、全然開かないものが多かった、という記憶があります。

3年生ですから修学旅行があります。この年(昭和34年)の4月から修学旅行専用の「ひので号」が導入されます。尾山台中学校も、ひので号を利用して京都へ行きました(春の遠足の写真がないので、その代わりに春に行ったのだと思います)。品川駅を朝早く(8時半頃)出発して、京都には午後4時ころに到着します。朱色(ライトスカーレット)と黄色(レモンイエロー)のツートンカラーの車体を覚えている人は多いと思います。
この電車は155系電車と言い、修学旅行専用に設計されたもので、車内のデザインも工夫されたものでした。座席は左右2列+3列で、座席分のスペースをひねり出すために、中央通路を狭くして中心からずらしてあります。ただし、通路出口の扉は真ん中に設置するために、車両両端の座席は2列+2列になっています。また、荷物棚は通路と直角に座席の上に設置して、大幅に荷物を置くスペースを広くしています。また、向かい合う座席の間には窓の下側からテーブルを持ち上げてポールで床に固定でき、このテーブルで旅先の調べ物をしたり、ゲームをしたりできるようになっていました。
上の写真はここからお借りしています。ひので号車内の写真がありました。これは車両の端っこの通路扉の前の座席です。
京都での宿泊は、金波楼でした。なんで覚えているかというと、名前が柳家金語楼に似ているからです。金語楼は当時、NHKのテレビ番組「ジェスチャー」の白組キャプテンとして活躍していました。この旅館、町中にあり、新京極も近くて便利だったことを憶えています。京都四条の錦市場近くに今でもあります。だいぶモダンになっているけれど、今でも修学旅行生を受け入れています。ちなみに夜は、お決まりの枕なげでした。

詳しい旅程は憶えていないのですが、大きな写真から判断して、京都の平安神宮、比叡山延暦寺、奈良の奈良公園、飛鳥の法隆寺を訪れたのは間違いありません。
次の写真の背景をみると、石山、洗心寮の文字が見えます。これは、滋賀大津の石山寺門前のお食事処・お土産屋さんの洗心寮であることは間違いないでしょう。石山寺を訪ねているんですね。
上に加えて、猿沢の池、興福寺周辺を訪れているようです。

前にカメラのところで書いたベス単で撮ったと思われる写真がありました。それを見ると、宇治の平等院、東大寺、薬師寺も訪れているようです。そのうち何枚かをまとめて、ギャラリーとして載せておきます。

水泳部の日ごろの練習の成果はいかに。たしか世田谷区の大会に出ました。北沢中学校で開催されたんだとと思います。写真の裏には昭和34年8月31日と書かれています。
飛び込む瞬間を捉えた、いいシャッターチャンス!一番奥が筆者です。種目はたしか100m平泳ぎ。記憶では、ビリだったけど、頭が水面からもぐっているので失格となったと思います。当時は古川の潜水泳法を禁じるために、頭が水面の下になるのを禁じていたのです。
でも賞状をもらっているので、全体としては入賞したのでしょう。ただし、上の2枚の写真が同じ日のものか、あるいは別の大会のものなのか、判然としません。

多分3年の時に、大きな競技場(国立競技場?)で行われた大会、これも世田谷区の中学校対抗陸上大会だったと思うのですが、に参加しています。たしか砲丸投げでエントリーしたはずです。付け焼刃なので、結果は散々でした。

日時不明ながら3年生の頃の写真が何枚かあります。真ん中の写真は、尾山台と九品仏の間、大井町線の線路わき(南側)のはずです。線路に沿って、まだまだ空き地がたくさんあったのです。
秋の運動会。これも日時は不明ですが、一枚、特別に焼き付けた写真があります。
この写真はたぶん、男女2人ずつによるクラス対抗のリレーに出場した記念写真だと思います。後で出てくる卒業アルバムの3Dのページにあるグループ写真に「優勝」の文字があり、女性陣がトロフィーと桐箱を持っているので、いい成績だったのでしょう。あまり笑わない原島先生が笑っているし。次の写真がそのリレーの場面です、2番手が筆者です。
種目には、借り物競争や棒倒しがあったようですが、何と言っても運動会の華は組体操ですね。3年生の組体操の写真のギャラリーです。体が大きかったので、たいていは一番下の真ん中にいます。各写真をクリックすると拡大されます。

秋の遠足があったようですが、日時も不明、どこへ行ったのかも覚えていません。写真から判断すると房総半島か三浦半島のどこかのような感じがしますが、、、。
バスで行って、山道を歩いたような写真があります。
見晴らしの良い場所に小清水君と野沢君が立っています。後ろに広がるのは海?
ボケっとした感じで写っていますが、、。

もう一つ、社会科見学か何かで、羽田空港に言っているんですね、これも日時ははっきりしませんが。

これも日時不明ですが、写真の裏に次の書き込みがあります。「昭和34年 世田谷区内中学校の合唱発表会に参加。於:世田谷区民会館。合唱曲:光の流れ、ハイリリ・ハイロー」
写真そのものはピントが甘くてややボケているのですが、、。
会場内で歌っている場面の写真はさらにボケボケで、みんなの顔は能面みたいに白くなっていますが、雰囲気を伝えるために。
「光のながれ」は、昭和30年の第22回NHK全国学校音楽コンクールの中学校の部の課題曲でした。ここで聞くことができます。「光のながれ」の方は全く覚えていませんが、「ハイリリ・ハイロー」の方は出だしの2行の歌詞とメロディーを覚えています。

恋をする人の ハイリリ ハイリリ ハイロー
心は降る雨の 調べに似て
涙のつきない はかない虹よ
窓辺に身を もたせて
ハイリリ ハイリリ ハイロー
明日をも知らぬ 恋よ
ハイリリ ハイリリ ハイロー

レスリー・キャロンの「リリー」という映画で歌われた曲らしいです。合唱曲としての音源は見つかりませんでした。アコーディオン演奏のものが見つかりましたが、合唱曲はもっと軽やかでした。

さて、受験本番です。当時の都立高校の受験科目は9つでした。学区合同選抜制度の下で、世田谷区は新宿、渋谷、目黒区と共に第二学区でした。新宿か戸山か迷った挙句、最終的に、新宿高校を希望して受験しました。多分これが、受験票に貼った写真だと思います。

新宿駅南口で降りて甲州街道の坂道を新宿御苑の方に下りて、明治通りを渡った右側に新宿高校はあります。校門を入り、少し坂を下った左側に立っていた旧旧校舎は、中学校の校舎とは全然、違う、厚いコンクリートのがっしりした建物でした。中に入ると何となく暗く、駅の地下道のような感じでした。その教室で2日にわたって試験を受けました。幸いなことに合格して、昭和35年4月から新宿高校に通うことになります。下の写真は国土地理院のページからコピーしてネームを入れたもので、撮影は昭和38年6月26日です。

もちろん、その前に卒業式と謝恩会。謝恩会と裏に書かれた写真の日付は3月19日でした。下の方に「イブ・モンケツ」と誰かの字で書かれていました。馬場桂子さんと前に出て歌っているようです。何を歌ったか?全然覚えていません。

3Cの卒業アルバムの写真です。
これ以外にグループごとに撮った写真があり、「伸びゆく若木」というキャプションがついてます。全部でグループは5つあるのですが、その他の写真についたキャプションは、「巣立ち」「友情」「若人」「優勝」です。

こうして、中学校時代が終わり、次は高校時代です。ここまでは、主として学校行事の写真を中心に書いてきました。映画のことや鳩を飼育したことなど、たくさん書き残したことがあるので、それらはページを改めて書くことにします。


科学と生物学について考える一生物学者のあれこれ