生い立ちの記(4)尾山台小学校時代

昭和29年4月、尾山台小学校4年3組編入になります。担任は吉成昭子先生でした。この後はクラス替えはなく、ずっと3組で学年進行しました。尾山台小学校は、家から歩いて数分で着くので、登下校は楽でした。家の前の道を、西にまっすぐ歩けば小学校の門に着くのです。

でもその前にトラップが。学校の門の手前に右に折れる道あり、その角と曲がってすぐの左側に、それぞれ駄菓子屋さんがありました。ノートや鉛筆のような文房具があったのかもしれませんが、四角いガラスの陳列ケースや瓶が並び、そこに入った駄菓子が目を引きました。
まさにこんな感じです。この写真は千駄木の駄菓子屋木村屋さんです(撮影20180607)。

ただ、母から、「こういうところで買ってはいけない」と厳命されていたので、指をくわえてみているだけでしたが。そうそう、鳥もちを売っていました。これは買って、細い竹竿の先に唾で手に付かないようにしながらぐるりと付けて、ギンヤンマ(ギンチャンと呼んでいたと思う)を取るために振り回したことを憶えています。実際には、トンボが素早すぎてほとんど取れませんでしたが。

春の遠足は昭和29年4月20日、鎌倉史跡めぐりでした。「鶴岡八幡宮にて。天候にめぐまれず、薄ぐもりにて肌寒き日なり」
こちらはもちろん「長谷の大仏の前にて」です。

遠足とは別に、社会科見学というのがあったらしく、6月24日に皇居前で撮った写真があります。

当時、尾山台小学校にはプールがなく、プールを使う授業はありませんでした。夏休みに、近くの東横学園(現東京都市大学中学校・高等学校)のプールを借りて「夏季水泳訓練」があり、母は国民皆泳と訳の分からないことを言い、そこに参加しています。昭和29年8月5日の日付があります。


このあたりまでは、アルバムに貼られた写真のほとんどは、学校行事の折に一緒に行った写真屋さんが撮影した、大型の、いわゆる記念写真ばかりでした。この頃から、ぼちぼち個人のカメラで撮影した写真が出てきます。筆者もこの頃、「スタート35」という、一光社が出したカメラを買ってもらった記憶があります。ボディーはベークライト製で、シャッタースピードがT(1/25秒)とB(バルブ)しかなく、絞りも2段階だけで固定焦点でした。

露出計があるわけでもなく、まったくあてずっぽうにシャッターを切って、撮影してました。最初に撮影したのは庭に咲いていたツワブキの黄色い花だった記憶があります。

これよりも前に、祖父が愛用していたというベス単(正しくはヴェス単Vest pocket KODAKのことで1912年発売、所持しているのは背面の銘板の年号からおそらく1917年製造)をもらって、おもちゃにしていました(下の写真は2018年6月に改めて撮影)。
このカメラにフィルムを入れて撮影したかどうかはっきり覚えていないのですが、皮のケースの紐に名前のタグが付いていました。そこには母の字で「尾山台中学校 森谷 勝 3C1班」と書かれています。中学の修学旅行に持っていって使ったのかもしれません。スタート35に比べると、こちらの方がシャッタースピードは4段階、絞りは開放から最小まで無段階で設定することができました。結構な優れものなのです。

秋の遠足は昭和29年10月20日に、「村山貯水池、ユネスコ村、国分寺等見学」でした。

社会科見学を1年に2回行っていたんでしょうか、「昭和30年2月24日に羽田空港にて撮影」という写真があります。

学年末は学芸会です。昭和30年3月7・8日に開かれました。4年の出し物の劇「雨つぶ達」の入道雲の王様になって出演しました。

この話、よく覚えています。雲の上の話です。入道雲の王様が雲の上の世界を仕切っていました。王様の命令一下、風を吹かせたり、雷を鳴らしたり、雨を降らせたりするのです。ある時、下の方から雨乞いの声が聞こえてきます。雨が全然降らないのでお百姓さんたちが困って雨乞いをしたのです。でも王様は中央に置かれた雲の玉座に横になって、グーグーと寝ています(小さなボケボケの写真ですが)。
小さな雨粒達は、思い余ってみんなで相談し、王様の号令がないのに次々と雲の下の下界に飛び降りていきました。2粒だけが行き遅れて残ってしまいます。王様が目を覚まして、泣きながら訴える雨粒に、「なに、みんな行ってしまった?」という場面です。
雨粒の涙にほだされ(?)、王様は心機一転、風や雷を呼び集め、雨を降らせるのでした。めでたし、めでたし。
終わった後のカーテンコールのようです。右側の案内板のタイトルが違っているのがいただけませんが。

入道雲の王様の、黒いガウンのような衣装は、綿の入ったドテラのようなもので、母の手作りです。手に持った小さな纏あるいは払子のようなものもそうです。

日付がはっきりしないのですが、吉成先生が写っているので4年生であることは間違いありません。薄くて見えにくいですが、左側の案内板にそう書かれています。左の波カッコの下に制作者の名前があるようです。多分、社会科の勉強の一環として、何人かが集まって「きもののうつりかわり」という展示をしたようです。

こうして5年生になりました。担任は西川先生に変わります。

春の遠足は、江ノ島でした(日時不明)。
江ノ島の灯台に上ったんですね。塔には「平和塔」と書かれています。
島の岩場で、誰かに撮ってもらった小さな写真(24x35mm)がアルバムに張り付けてあったので、うんと解像度を上げてスキャンしてみました。変色もしているのですが、、。
帰りに横浜港に寄ったのかしら。

当時、光文社発行の「少年」を購読していました。鉄腕アトムの連載が始まったのが昭和27年4月からで、連載の最初のころを覚えているので、その頃から買っていたようです。付録が楽しみでした。思い出すのを上げてみると、蓄音機(レコード付き、「♪京の五条の橋の上、、」で始まる牛若丸ともう一枚は忘れた)、日光写真(楽しみました)、映写機(これも)など。連載されていたものに、鉄腕アトムのほか、鉄人28号、少年探偵団、赤胴鈴之助(途中で作者が急逝して作家が変わったのを覚えています)など。

その「少年」の愛読者のための企画で、一日海上保安官というのがありました。海上保安庁の巡視船むろと(1950年に竣工した初代です)に乗って、確か竹芝桟橋から房総半島の金谷に行って戻ってくる航海を体験できるという企画です。これにはがきを出して応募し、幸いなことに当たりました。弟と参加しています。
大きな船(多分700トン)でしたが、東京湾口を出ると、上下に大きく揺れました。写真の左端に女の子が写っています。雑誌少年の企画なのに女の子と、注目の的でした。確か名前が男の子っぽい名前で、間違えたんだろうということでした。

「光文社の催しでむろとに乗って金谷まで行き、そこで友達になった野村君からスタート35で写してもらう」という写真が2枚あります。

この頃、尾山台駅から線路に沿ってちょっと入った左側にある青谷珠算塾で、算盤を習っていました。その珠算塾の人たちと、葉山へ行った時の写真です。3級まで取りましたが、暗算がだめで、それ以上、上へはいけませんでした。

でもって、夏と言えば臨海学校です。尾山台小学校の臨海学校は、房総半島の保田の、内房線の線路のすぐ近くで前面に畑がある、大きな漁師さんの家を借りて行われました。元名海水浴場を使ったと思います。参加者全員の写真です。
保田まで、どういう経路で行ったのか覚えていないのですが、多分東京湾をフェリーで渡って金谷へ行ったんだと思います。次の写真はそのフェリーの船上のような気がします。

海水浴場は砂浜はもちろん、ちょっとした岩場もありました。また、保田の宿舎の周りには田園風景が広がり、世田谷とは雰囲気が違う別世界でした。近くの鋸山にも上りました。

運動会があったはずですが、写真はないようです。次は秋の遠足です。これも日時はアルバムに書かれていないので不明ですが、相模湖へ行きました。
立川駅頭での写真があるので、電車で行ったんですね。
以下、湖畔での写真です。
これは何かの施設の前ですね。

授業中の写真は当たり前ですが、ほとんどありません。次の写真は工作だったかの授業で、家の立体模型を作ったときのものです。当時確か「パパは何でも知っている」が放送されていて、それを見てアメリカの家は機能的だなーと思って、玄関を入るとすぐに居間に続くという模型を作った記憶があります。みんなに変だといわれながら。片流れの屋根ですが、間取りは各自が考えて作ったんだと思います。

日付不明でこの頃撮ってもらった写真です。裏に「城南薬局のサービス写真」とあります。

きっと冬ですね、社会科見学で皇居前広場の楠木正成像の前で。
同じ時のもう一枚の写真が興味を引きました。どこで撮ったか全く覚えていないのです。

右側にある看板をよく見てみると、「東書文庫」と「東京教育研究所」とあります。調べてみると、東書文庫というのは教科書出版社の東京書籍が、教科書の散逸を憂いて昭和9年に設立し、昭和11年に竣工した教科書を集めた図書館でした。下の写真はそのサイトで、ご利用案内→館内のご案内ページにあったものを借用しています。建物はアールデコ調で、二本の柱が丸い庇を支えているとあります。その2本の柱が上の写真に見えますね。

何となく、昔の教科書、「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」を見た記憶が、あるようなないような。ちなみにこの施設は北区栄町、王子駅の東にあり、戦災から当時の職員の方々の努力で免れることができたので、北区指定有形文化財の指定を受けています。

こうして6年生になりました。担任は上田昭夫先生です。

春の遠足は昭和31年5月1日、箱根でした。次の写真は順番に、仙石原にて、箱根関所跡、芦ノ湖を渡る船上、恩賜公園内博物館前、関所跡にて(上田先生撮影)、箱根関所跡より戻る途中(浅沼先生撮影)、戻る途中全員で、です。
仙石原にて 箱根関所跡 芦ノ湖を渡る船上 恩賜公園内博物館前関所跡にて(上田先生撮影)
箱根関所跡より戻る途中(浅沼先生撮影) 戻る途中全員で

この年の夏は、行事が続きました。保田での臨海学校、修学旅行、山中湖林間学校です。

臨海学校は7月22日から25日で、昨年と同じ場所で行われました。
最後の写真は、鋸山の頂上で撮ったものです。

続いて7月28日・29日が日光への修学旅行。
陽明門の前で
中禅寺湖の畔菖蒲ケ浜で

もちろん、華厳の滝の前での写真です。

8月2日から4日には、山中湖林間学校に参加しました。写真は、三国峠頂で撮ったものです。

小学校最後の運動会が10月7日に行われました。騎馬戦と組立体操の写真です(写真をクリックすると拡大されます)。組立体操では、いつも一番下の支え役でした。

尾山台小学校では、相撲体操というものがありました。太鼓を打ち鳴らし、上半身裸で体操するのです。その最後に選ばれた選手が体操を主導する作田先生と対戦し、次にクラス対抗で対戦するのです。選ばれた選手はトレパンではなくちゃんとまわしを締めました。かく言う筆者も選手に選ばれました。

秋の遠足は長瀞でした。

この頃撮影した日付不明の写真がアルバムに貼ってありました。上の写真は家の西側で、下の写真は家の前の道路で撮ったものです。

中学受験もしたようです。受験写真が残っています。まったく覚えていないのですが、多分学芸大学附属中学校を受けたのだと思います。小学校に続いて、また落ちたんでしょうね。

そして卒業です。アルバムの卒業写真から取りました。尾山台小学校17回生でした。
アルバムには、卒業時に撮影したこんな写真が貼ってありました。「卒業に際して思い出の職員室前で」

ここまでは、アルバムに貼られている写真を中心に書いてきましたが、それ以外にもいろいろと思い出すことがあります。思い出すままに順不同で書いてみます。

尾山台小学校には、他とは違う、と言っても他を知らないので比較のしようがありませんが、型破りの先生方がいらして教育をしていたように思います。上の運動会のところで述べた作田先生は何の先生でしたっけ。音楽の酒田先生は、ドレミではなく、CDEを「ツェー、デー、エー」として教わりました。

ある時、何かの都合で1組の畑先生が教室にいらして授業をやることになりました。先生は黒板に「偶成」朱熹と書き、続いて七言絶句を黒板に大書しました。こんな感じです(この写真は卒業アルバムの6年1組のページをスキャンしました)。
これを全員で声を出して唱和するのです。何回唱和したか覚えていませんが、そのおかげで、今でも空で言え、すらすらと書けるようになりました。

少年易老学難成
一寸光陰不可軽
未醒池塘春草夢
階前梧葉已秋聲

今、こう書いていると、2行目にあるようにしてきたかと、反省しきりです。

5年か6年のころ、関君と石鹸箱鉱石ラジオを一緒に作りました。彼が説明書を持っていて、秋葉原のガード下のパーツ屋さんに、バリコン、抵抗、コンデンサー、鉱石ゲルマニウム、クリスタルイヤホーンなどの部品を買いに行き、彼の家で半田ごてを使って作ったのです。今回、「石鹸箱鉱石ラジオ」で検索したら、記事写真がありました。びっくり。下の写真はここから借用してます。その時作ったのは一石のゲルマニウムラジオで、こんな複雑な中身ではありませんでした。

それでも出来上がって、イヤホーンから音が出たときは、とても感激しました。秋葉原のパーツ屋さん街は、このときはじめて知り、その後、何度も通うようになりました。

まだまだ映画や本のことなど、書き足りないのですが、長くなりすぎるのでそれらは別項にして、ここでこの項を終わることにします。


科学と生物学について考える一生物学者のあれこれ