生い立ちの記8 尾山台中学校時代(前)

1年生
昭和32年(1957)4月に、尾山台中学校に入学しました。中高一貫の私立中学校へ進学した人以外は、尾山台小学校の卒業生はほとんど、尾山台中学校へ進学したと思います。ともあれ、入学式後に撮った写真が残っています。

1学年6クラスで、筆者は1年A組、クラス担任は小山吉彦先生(少し後で結婚されて上保姓になりますが)、校長は高橋三郎先生でした。

アルバムに貼ってある次の写真は、春の遠足のものです。場所は千葉市の稲毛海岸でした。今はもう、この写真のあたりは埋め立てられて団地になっていますが、当時は潮干狩りができたんです。潮干狩りをして、後ろに見えるよしず張りの休憩所で昼食を食べたんですね。
上の3枚のうち、真ん中の写真はどこで撮ったかわかりません。武村君が取った貝を持っているので、帰りのどこかで撮ったものなのでしょう。

次の写真は教育実習で来られた実習生(名前を忘れた)が、実習を終了した際に校門の前で撮ったものです。
名前は忘れてしまったけれど、この先生のことはよく覚えています。多分、教科は国語だったと思います。文章を書く宿題が出され、アリの観察文を書いてノートを提出したところ、赤い字でかなりの長さのコメントが書き込まれていて、とてもうれしかったことを憶えています。

次の写真は、級友だった秋山昌雄君の家(ミシン屋さんだった)の前で撮ったものです。
この頃よく、彼の家に行き、2階の部屋で遊びました。家に空気銃があり、ある時それを借りて2階の窓から外にいたスズメを狙って撃ったら、本当に当たってしまい、スズメがくるくると回りながら落ちて死んでしまいました。自分の手でそれまで生きていた生き物を殺したことに愕然として、深く後悔したことがありました。

夏は臨海学校です。中学校の臨海学校は、神奈川県の三浦半島の初声町三戸にある、光照寺というところで行われました。お寺の本堂を宿泊場所としたのです。この年は7月31日から8月4日まででした。

お寺から北へ少し行ったところに三戸浜海岸のかなり長い砂浜があります。下の写真はGoogleMapから取ったもので、撮影は2018年で、左下にあるマークが光照寺です。この地図では右中ほどに、三崎口駅が見えますが、当時は、京浜急行はここまで来ていませんでした。学校から、どういう経路で光照寺まで行ったか、覚えていません。
臨海学校ですから、上級生も一緒です。その集合写真です。
こちらは女子も含めた全員です。

海に入る前には、ちゃんと準備体操。
時間を区切って休憩タイム。休憩時間には日向ぼっこ、いえ、砂遊びです。
スイカ割では、見事に割ったようです。でもそうすると、もうスイカはぐちゃぐちゃで、食べられないですね。
臨海学校のイベントに遠泳があります。三戸浜海岸から少し沖に出て、浜に平行に泳ぎ、黒崎の鼻(上の地図の一番左上の出っ張り)までを往復するのです。いちおう和船が隊列の横につきます。一年生の参加者はあまりいなかったように記憶していますが、ともかく参加しました。最後尾に近くで、2年生の女子のすぐあとを平泳ぎで必死に泳いだ気がします、遅れないように前を行く足とお尻を見つめながら。それが誰だったかもはっきりと覚えています。

完走、じゃなかった完泳した後でもらった氷砂糖が、口に残った海水の塩っぱさと甘さが混じっておいしかったこと!達成感もありましたし。

三戸浜の南端には岩場もあります。潮だまりを覗いたかどうか覚えてませんが。
三戸浜のすぐ南側は小網代湾があり、その南には油壷湾があります。この二つの湾に挟まれた部分に東京大学理学部付属の臨海実験所があります。後年、大学院に入ってから、この臨海実験所で3年間研究生活を送るとは、神ならぬ身には知る由もありませんでした。

次の写真の裏には、「松島さんに撮っていただく」という書き込みがあります。1枚目の写真は玄関ポーチをバックに母と写っていて、左方に大きな棕櫚の木が見えます。松島さんは、玄関の左にある洋間に下宿をしていた武蔵工業大学(当時・現東京都市大学)の学生さんのはずです。2枚目の方は弟と写っていて、玄関へ続くアプローチの途中で柘植と南天の木をバックに撮ったものです。手入れが行き届いていないので、この頃には庭など、だいぶ荒れていますね(生い立ちの記の1と比較してみてください)。
日付は11月3日ですが、似たような場所で撮った写真があります。撮影者は不明です。

秋の遠足は10月23日、目的地は中津川渓谷でした。
下の2枚は、この頃よく遊んだ秋山君と角田忠久君です。次の写真の裏には、「日立ミシン業者の運動会に秋山君に連れて行ってもらう」という書き込みがあります。

多摩川遊園地にはよく行ったと思うのですが、次の写真は11月1日とあって、バックに菊が並んでいますから、多分、多摩川遊園地での菊人形展の時の写真のように思います。
もう一人、秋山君の家でよく一緒に遊んだ宮里靖夫君も入った3人組の写真です。日付ははっきりしないのですが、雪が降った後のようなので、1月か2月なのでしょう。
これで1年生の時の写真は終わりです。

2年生
2年生になりました。クラスはE組、担任は矢田昭三先生でした。1年ごとにクラス替えがあったので、3年間、ずっと一緒のクラスという人はあまりいませんでした。そのため、小学校の時と比べて、中学校の友達のことは少数の人を除いてあまり覚えていないのかもしれません。

アルバムに貼ってあるこの年度の最初の写真は、これです。
昭和33年(1958)4月19日に日本で日食が観察できました。この写真の裏には4月19日13時15分と書かれています。上の記録によると、東京では11時31分に始まり、14時58分に終わり、最大食分が13時19分で、0.88と書かれています。この写真は、ガラス板に蝋燭の煤をつけて、それをスタート35のレンズの前に置いて撮った記憶があります。最大食分のちょっと前の写真ですね。

春の遠足は小河内ダムでした。写真の裏に何も書かれていないので、日時は不明です。
もう一枚ありました。定着不足で黄色く変色して、傷がたくさんあり、しかも傾いた写真だったので、修復してみました。

二年生の時(襟章から)の写真で、撮影日時が不明のものが2枚ありました。ネガからスキャンして復元しました。

このあたりから写真の裏書がなくなり、日時がはっきりしないものが増えてきますが、アルバムには、次のイベントとして秋季大運動会と書かれていて、何枚かの写真が貼ってあります。しかしながら秋の運動会の前に、三戸浜の臨海学校に行っているはずですので、そちらを先に載せます。ずっと以前に整理しようとしたとき、この時点でアルバムに貼る順序が狂って、先に進むのを止めてしまったようです。

ともあれ、昨年の例でいえば7月末から8月にかけて光照寺での臨海学校があったはずで、それに参加しています。この年は臨海学校の写真が多く、光照寺での生活ぶりを示す写真があります。まず、当時の光照寺の本堂の写真です。本堂は建て替えられているようですが、現在の姿とあまり変わっていない感じがします。洗濯物が干してあるところは違いますが。

最初に参加者全体写真を載せておきます。男子だけバージョン。
続いて女子だけバージョン。
食事時の一場面です。長いテーブルというか簡易座卓を並べて、一番奥(外に近い)に先生方が横に座り、手前の右側に男子、左側に女子が向いあって座っています。アルマイトの食器で食べた記憶があります。
休憩タイム、本堂でリラックス。
多分、水着に着替えるときの悪ふざけです。本堂の、しかもお位牌の前で、罰当たりの困った生徒たちですね。
夕闇迫るころ、本堂前の広場でフォークダンスを踊りました。この頃フォークダンスが流行っていました。マイム・マイムとかオクラホマミキサーとかコロブチカとかが定番でしたね。いまWikipediaで調べたら、GHQの占領政策として、戦後、普及活動が行われたそうです。なるほどね、我々は小学校の給食の粉ミルクにしても(とてもまずかったけれど)、いろいろと影響を受けていたんですよね。ともあれ、女子と手を取って踊るのは、嬉し恥ずかしの年頃でした(今から考えると初心ですね)。一番手前で、一年生の女子に手を差し出しているのが筆者です。

光照寺の門を入った両側にはお墓が並び、そこから本堂へ向かう階段の両脇には、大きなスダジイが植えられていました。樹齢500年以上とか(下の現在の光照寺の写真はSTAYCATION、CASAおすすめスポットからお借りしています)。
そのスダジイの前に立って撮った写真がありました。
こちらの写真は、本堂の前から入口方面を見た写真で、左手にスダジイが見えます。この頃西部劇に凝っていたので、帽子のかぶり方や姿勢に、ちょっとその影響が見えます。
お墓の近くで撮った写真もあります。ここにも洗濯物が干してありますね。
上の方に載せた航空写真でもわかるように、お寺の近くには畑地がありました。夕方そのあたりへ散歩に。

臨海学校なのに、海辺の写真がありませんでしたね。次の写真は海辺でスイカを食べているところです。スイカ割の後でしょうね。
この年ももちろん、遠泳に参加しました。今度は先頭の方で泳いだので、必死についてい行く足もお尻もありませんでした。
これで臨海学校は終わりです。

林間学校にも行ってるようなのですが、どこだったかどうしても思い出せません。バンガローに泊まって飯盒炊爨をしてるようです。蓼科か志賀高原だったような、、。

アルバムの秋の大運動会に戻ります。最初の写真は入場式です。
横一列なので、わかりにくいのですが、筆者は後ろから2列目の手前から3人目にちょこっと見えてます。

次が団体競技の「東海道五十三次」。お先棒を担いでゴールに入っているのが筆者のようです。ぶっちぎりのトップですよね。

100M徒競走は必ずありましたよね。何組もに分かれて出走待ちです。
号砲がなって走り出し、コーナーにかかるところで、トップにたっています。確かこのままゴールインして1着だった記憶があります。

中距離もあったようです、確か1500Mで、トラック3周半。
ここに写っているのが筆者かどうかは不確かなのですが、上の写真の左の人物はそうだと思うのです。

次が秋の遠足です。日時不明ですが、「平塚海岸へ遠足」と書かれています。地引網の体験をした写真が残っています。
先生はやる気十分なのに、生徒はやる気なし子さんで、「あたしの柔肌にロープが食い込むわ」、右端の筆者は、「、、、」。左端の漁師さんは「何を言ってんだ、いい若いもんが」。

ここで、アルバムに貼り付けて整理された写真は終わりとなり、残りは、まとめて挟んであるだけになります。日付けが書かれていないものも多いので、順番を推定しながら載せていくことにします。したがって、順番は正しくないかもしれません。
日時不明の写真です。

これも日時不明ですが、多分、2年生の秋口に、1年生の時の担任である上保先生の家を、6人の級友(と言っても木村良知君以外は名前不明)と訪問しています。上保先生は「職業・家庭」の先生で、1年の時に簿記を習いました。黒と赤のインクを使った簿記の基本をやった気がします。

調べてみると、2年生になった昭和33年からは、この科目は「技術・家庭」という教科になり、男子生徒は技術、女子生徒は家庭を、分かれて学習するようになります。したがって「職業・家庭」という教科が存在したのは、昭和22年から同32年まででした。

「技術」の授業内容はよく覚えていませんが、たしか本立てなんかを作った気がします。後で述べる、勉強部屋の机の上において使った気がします。

先生の家で、ちゃっかり食事をごちそうになっています。
でもって、先生の家がどこにあったか覚えていません。世田谷区の少し北の方だったような。家の居間と門の前でもパチリ。中学校時代、先生の家を訪ねたというのは、後にも先にもこれだけです。ありがとうございました。

11月7日、学芸会がありました。ここで「雪女」が上演されましたが、この劇の主役を張ったんです。相手役は中村昌子さん。2年生合同だったか、E組だけだったか、はっきりしないのですが、出演者の顔ぶれを見るとE組だけではないので、合同だったんでしょう。演出は担任の矢田先生でした。

「雪女」と言えば、小泉八雲のものがよく知られていますが、このときの脚本は少し異なっていたと記憶しています。正直に言うと、細かい筋立ては憶えていません。写真を見ると、村人とのやり取りする場面(多分いじめられている)があったようです。で、雪女に助けられ、一緒に暮らし、最後に去っていくといった筋ではなかったかしら。

最後に、お雪が雪女に戻って去っていくところで、「行かないでくれー」とか叫ぶのですが、「手を前に伸ばして」、「膝を落として」、「もっと切実な声で」、と演出の矢田先生から何度もダメだしがあったことを憶えています。主役の二人を撮った写真があります。
こちらは出演者全員の写真です。ドーランを塗って、衣装もちゃんとしていて、かなり本格的な上演だったんですね。
写真には出てきませんが、出演者だけでなく、大道具や小道具などを担当する生徒もいたはずです。唯一覚えているのは、舞台装置の水車小屋の水車がずーっと回っているんですが、これは裏で堤孝高君が回していたんです。

舞台の写真はブレていたり、ピンボケだったりして、あまりいいものがないのですが、いくつかを載せておきます。舞台の雰囲気がわかるでしょう。最初の写真は、木の根元に縛られています。

晴れの舞台であった学芸会が終わりました。余韻に浸るために(あるいは長くなったので)で、この後のことは、「尾山台中学時代(後)」に引き継ぐことにします。


科学と生物学について考える一生物学者のあれこれ