生い立ちの記3 八幡小学校時代

昭和26年(1951)4月に、世田谷区立八幡小学校に入学します。入学式の当日の写真です。足元の丸い線の中に立つように言われ、順番に撮影したように記憶しています。やや緊張気味。
集合写真、一番後列の右端にいます。クラスがいくつあったか、何組だったかは憶えていないのですが、担任は町田先生でした。

八幡小学校は、東急東横線の自由が丘駅と田園調布駅の間の西側線路沿いに立地していて、地番は世田谷区玉川田園調布2丁目です。このあたりは世田谷区、大田区、目黒区の境界が入り組んでいて、少し南に下がると大田区になり、東横線田園調布駅は大田区田園調布で、北にちょっと行くと目黒区になり、自由が丘駅は目黒区になります。家からだと直線距離で900メートルほど離れています。尾山台小学校なら200メートルもなかったんですが。

ともあれ、毎日、歩いて通いました。小学校1年から3年までの学校生活の記憶はあまりなく、断片的に覚えているだけですが、アルバムには遠足の時の写真が貼ってあるので、春と秋に遠足があり、そこには母と弟が参加しているのがわかります。

遠足と言っても近場でした。1年生6月、大倉山公園。アルバムには「お母さんたちの方が多いかな?」という書き込みがあります。しかも弟や妹連れで。

これ以降、「」内はアルバムに書き込まれている言葉です。たぶん高校生の頃、写真を整理してアルバムを作ったようですが、2冊目の途中で挫折しています。今再び、リベンジ。

1年生10月26日、新宿御苑です。

町田先生が病気休職となり、担任は渡辺隆子先生に変わっています(左端)。今気が付いたのですが、当時、新宿御苑には滑り台やブランコなどの遊具があったんですね。今はないです。ところで、この写真ずいぶん引いた図柄ですよね、しかも左側に黒い帯があって。誰が撮ったんでしょうか。

「お弁当の時間です」というスナップ写真もあります。中央でこちら向きで話しかけているようなのが母ですから、手前に筆者と弟がいるのでしょう。遠足は、家族のイベントだったんですね。

この年(だと思うのですが、日付の記入がありません。顔つきから判断していますが、翌年かもしれません)の夏に、近所のお兄さんたちと撮った貴重な一枚があります。当時の子供たちの生活が浮かび出てくる写真です。我が家のすぐ近くの家の前で撮ったもので、誰が撮ったか、写っているのは誰か覚えていません。

大きいお兄さんがいるのは、近くに武蔵工業大学(現東京都市大学)があったからで、大学生が近所に寄宿していたのです。

1年の終わりの昭和27年2月9日に学芸会がありました。そこでの1年生の出し物の劇「うさぎのおみみ」に出演しています。これもよく覚えていませんが、右端にいます。

2年生の春の遠足は、5月2日に向ケ丘遊園地でした。2年になって担任は竹内弥生先生になりました。
毎回参加しているので、母親同士で知り合いになったのでしょう、西方慶子さん(左端)と折田みつ子さん(右端)と筆者とが写っている写真があります。
「昭和27年8月28日、多摩川浅間神社祭礼の折、宮門様宅にて撮影 筆者8歳、弟5歳」という書き込みのある写真があります。
かすかな記憶によれば、父は満州から戻った後、日本ヒューム管株式会社に就職したようです(工学院・現工学院大学を卒業と聞いた)。その後、退職して友人と事業を起こすが失敗して、この頃は田園調布駅の東側にある、建築資材を扱う有限会社宮門商店に勤めていました。その地区のお祭りの折、店の近くに飾ってあったお神輿の前で撮ったものです。そういえば、トラックの運転席に乗って成田山新勝寺にお参りに行った記憶もあります、お正月の初詣だったのでしょう。

秋、10月には運動会が行われます。学年別リレー選手に選ばれたらしく、こんな写真が残っています。
アルバムの書き込みには、「八幡小学校運動会(2年生)、学年別リレー選手に西方慶子ちゃんと共にえらばれて」とあります。
「八幡小学校運動会 弟といっしょに」。4月2日生まれというのは、学年の最初の日なので、ほかの人よりは少し成長が早く、足が速かったのでしょう。

秋の遠足は10月30日で、野毛山公園でした。
お母さんたちの数は、だいぶ少なくなっていますね。「雨にあいよくない日だった」とあります。

翌年の学年末の昭和28年3月7、8日にあった学芸会に、器楽演奏に出演しています。左端から2番目にいます。児童の数からみて、全員が出演したのではないようです。「昭和28年3月7、8日学芸会、出演記念(2年生)、春が来た、靴がなる」とあります。

こうして3年生になりました。3年生の春の遠足は4月30日、井之頭公園でした。
「昼頃より風雨強くなりて、愉快ならざりし遠足日なり」とありますが、写真の出来上がりも、筆者の顔に糸くずがかかってしまっていて悪く、極めて愉快ならざりし結果です。

この後、アルバムには「多摩川遊園地へ、竹内先生と」とあって、3枚の写真が貼られています(日時不明)。当時は駅前に多摩川園遊園地があり、駅名もそれに従って多摩川園前駅でした。多摩川園遊園地は当時は、このあたりで家族でよく行く遊園地でした。クラス全員が言ったわけではないので、先生が個人的に連れて行ってくれたんですね。
このとき行ったかどうかは憶えていませんが、園内にあったびっくりハウスは、中へ入ってびっくりしたので今でもよく覚えています。多摩川園遊園地は昭和54年に閉園したので、現在では駅名は元の多摩川駅となっています。多摩川園遊園地のことは、2018年1月20日放送の「ブラタモリ」の中に出てきます。どうしてここが遊園地になったのか、その答えがありました。

家のたたずまいが分かる写真が2枚あります。写真の裏に「昭和28年7月6日(日曜)くもり、筆者満9歳3か月、弟満5歳11か月」と母の書き込みがあります。生い立ちの記(1)にある家の間取り図と見比べるといいかも。

秋(日付不明)の遠足は相模湖でした。少し遠くまで足を延ばすようになっていますね。


アルバムには「麻布中学生が死んだ後だったので、みんなブルブル」と書かれていますが、麻布高校生22名がなくなった相模湖での内郷丸遭難事件は、翌年の昭和29年10月8日なので。記憶違いによる書き込みのようです。

年が明けて昭和29年の3月30日の日付の写真に以下のような書き込みがあります。「八幡校より尾山台校への転校のため、他に3名の方と共にお別れの遠足会。砧緑地。母は補導所6か月修了式のために出席できず」

そうなんです、八幡小学校は3年生の終わりまでで、卒業をしていないのです。そのため、写真を見ると何人かの顔を覚えていますが、ほとんど名前を憶えていません。

昭和27年4月1日に八幡小学校と尾山台小学校のちょうど中間地点に、九品仏小学校が創立されます。そのため学区編成変えがあり、九品仏小学校と尾山台小学校へ転校する児童が出たのです。筆者はもともと尾山台小学校の学区だったので、当然、その中に入り、折田みつ子さんと河村和之君とともに、尾山台小学校の4年生に編入されたのです。

この項を終わる前に、いくつかの思い出を。八幡小学校の裏門(東横線に面した方の門)から登下校していたと思うのですが、下校のころ、よく門の傍らに物売りの人がいて、何かを売っていました。こういうの、日本語で何というのでしょうか、大道売り、屋台の出店、ウーン、そんなに大きなものでなく、小さなシートを敷いて品物を並べて、売っているのです。

売っていたもので、今でもはっきり覚えているものは、黍殻で作った人形に手足をつけて顔を描き、下側に鉄片をつけ、セルロイド板の下から磁石で動かすというものです。ちゃんと舞台装置を作り、男の子と女の子を動かして物語を作って話しながら動かすのです。ヘビが出て来て、二人で家に逃げ込むというのがストーリーの最後だったかしら。

もう一つは、いろいろな色を付けた細かい砂を用意し、液状のノリを画用紙にさっと塗っては色砂をかけて彩色し、何色も使って見事な絵を仕上げるのです(これは今でも売っていますね)。

でもって、下校時に引っかかってじっと見つめ、欲しくて欲しくてしょうがなく、でもお金は持っていない。家まで走って帰ってお金をせがんで貰い、もう一度、学校へ戻って買った記憶があります。でもどれも、売り手がやっていたように、うまくはできませんでした。

で次回からは尾山台小学校時代のことを書きます。

 


科学と生物学について考える一生物学者のあれこれ