生い立ちの記 -思いつくままに

1944年(昭和19)4月2日に、東京都世田谷区玉川奥沢町3丁目348番地(現在の尾山台3丁目)に、森谷陽三、むめ(梅子)の長男として生まれました。東急大井町線の九品仏駅と尾山台駅のちょうど中間を南に下がった位置に家がありました(図をクリックすると拡大します)。現在はこの辺りは環八へ抜ける道が広くなり、だいぶ変わってしまいました。家の前の道を西へ300mほど行くと尾山台小学校があり、それより少し手前の北側に尾山台中学校があります。ここで生まれました、と書きましたが、実際は、自由が丘の産院だったようですが、その名前はわかりません。setagayatamagawaokusawamap

家の前は道ですが、東側には杉の生け垣を挟んで広い敷地の隣家があり、西側はマサキの生け垣を挟んで畑でした。北側にはこれもマサキの生垣を接して別の家(あまり立派なものではありませんでした)があり、確か木村さんという朝鮮人(現在はこの呼称は使うべきではないのかもしれませんが)が住んでいました。

昔の記憶を頼りに、家の間取りを復元してみました。結構よく覚えているもので、かなり正しく復元されていると思います。

ただし、庭木の位置と種類は正しく反映されていません。洋間の東側にあったのは2本の棕櫚の木でした。点線で示した垣根の上端の右側には柘植の木があり、柘植の下には南天が植わっていました(下の写真参照)。東側の2本の木は柿の木です。あと松の木が道路側に2本あったように思います。さらに、東北の隅にはイチジクが、西北隅には梅の木が植わっていました。道路側の仕切りは、大谷石の土台の上の盛り土に、沈丁花が並んで植わっていたと思います。

道路側に出窓のついた洋館を置き、本体は黒い瓦屋根の入母屋作り(確か)、廊下で部屋を囲む、と典型的な昭和初期の家のつくりだと思います。ポーチとともに玄関は、黒い玉石(那智石?)を埋め込んだコンクリでかなり広く、下駄箱が洋間に食い込むように配置されていました。上の図でわかるように、廊下が多くて無駄だなーと、子供心に思った記憶があります。

子供のころは、お風呂場に井戸水をくむ手押しのポンプがあり、水の出口を回して、風呂桶と洗面所の洗い場に水を供給していました。ある時、モーターで揚水して蛇口から出るようになりました。煮炊き所と書いてあるところにかまどがあったように思うのですが、ここを煮炊きに使った記憶はほとんどありません。ある時からプロパンガスになりました。風呂釜もお釜が壊れてしまって外風呂になり、尾山台中学校の少し先にあったお風呂屋さんに行きました。

この地へは、母である梅子とその祖母の寿々(すず)が、祖父兼次郎が昭和6年に心筋梗塞で突然亡くなった後、昭和10年代の半ばに家を建てて引っ越してきたと思われます。国土地理院の航空写真で調べてみると、昭和11年のものにはそれらしい家はなく、昭和16年の写真には写っているからです(下の写真も昭和16年撮影)。ちなみに尾山台小学校は昭和13年の初めに創立しました。

祖父はなくなる前は三田の慶応義塾大学前で洋服屋を営んでいて、腕のいい職人だったと聞いています。オートバイとタバコが好きだったそうです。したがって、私は祖父のことは写真でしか知りません。母は一人娘だったこともあり、かわいがられて育ったようです。

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母を抱く祖父(撮影年月日不詳)
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祖母森谷寿々
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祖父森谷兼次郎

玉川奥沢町の家の、庭と門の前で撮影された写真です。

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奥沢3丁目の家の玄関先で祖母寿々と母梅子 (昭和16年5月20日)(敷石を左へ進むと玄関のポーチが、右へ進むと門があった)
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門の前で母梅子

生まれた時には、父は満洲へ出征中でした。撮影日時は昭和19年とありますが、場所は不明です。

この辺りは田舎だったので空襲には会いませんでした。自由が丘は昭和20年3月10日と4月13日の空襲にあって焼け野原になっています。うちから南へ1kmほどの多摩川がB29の通り道で、飛行機は川沿いに内陸深く東京西部へ飛んで行って、この辺りは被害がなかったのです。ただ家の前の、たしか橋本さんの家には焼夷弾の弾倉(の一部?)が屋根を貫いて落ち、畳に穴があいたと記憶しています。

生まれて85日目(6月26日撮影)と5か月目(9月6日撮影)の写真が残っています。いずれも自由が丘のオクズミ写真館で撮影したものと思われます。

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